クリスチャンは、なぜ十分の一をささげるか

元セブンスデー・アドベンチスト世界総会会計  
C・L・トーリー

Gift of Heaven

 偉大な宇宙の神、すなわち天地万有の創造者は秩序の神であられる。神聖、崇高な神の御住居―天と関係のあるすべてのものは完全な秩序と調和を保っている。夜、きらめく星の下に座して、あの堂々と隊伍を整え、秩序正しく回転する星の壮観を見よ。それらは、ぶつかり合うことも、衝突し合うこともなく、創造者によって定められた軌道の上を常に変わりなく進んで行く。創造者は、それらが、測り知れない空間を通って、他の無数の光りかがやく天体間を、すみやかに飛んで行くのを、絶えず導いておいでになる。それゆえ、「一つも欠けることがない」のである。きらめく天の銀河系は非常に正確に軌道を走っているので、何千年後であろうと、一秒も時をたがえない。世界中の国々が星によって時計を合わせ、調節している。航海者たちは、大昔から、海がおだやかな時も、荒れ狂っている時も、星によって、船の位置を知り、航海を続けてきた。砂漠を行く隊商も、常に星をしるべに旅をしてきた。
 神は、これらの天体を軌道に導き、み力によってささえておいでになるだけで、ご自分が創造し、かつこよなく愛しておいでになる人間を、みこころにとめられないのではない。私たちがまだ極悪な罪びとであった時に、神はこの世にみ子をつかわし、人類の身代わりとして、死につかしめられた。それは、神のみ子の犠牲によって、人類を神に立ち帰らせるためであった。昔も今も、神は実にいつくしみ深い御愛で人類を愛しておいでになる。人類に対する、かくも深い驚くべき愛はとうてい理解し得べくもない。ヨハネは叫んでいる。「わたしたちが神の子と叫ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか」と。各時代を通して、天にいます私たちの父は、地上の子らを愛し、顧みてこられた。み摂理のうちにすべての要求は満たされ、すべての必要は充足されてきたのである。
 はるかいにしえの日から、神はご自分の教会―真理のためにはどのような犠牲を払うことも惜しまない民を持っておいでになる。
「神は、ご自分がお選びになったものを、たいせつになさるのである。彼らこそ、神のみ名を賛美するためと、世界の暗黒の中で光を輝かすために、暗やみから驚くべきみ光の中に招き入れられた者である」(キリストの実物教訓一四七ページ)。
「教会はどんなに弱く欠陥だらけのように見えても、神が特別な意味で最高の関心を払われる対象である。教会は神の恵みの舞台であり、そこで神は人々の心を変える力をあらわすことを、およろこびになるのである」(患難から栄光へ上巻四ページ)。
 天にいますいつくしみ深い父なる神は、み摂理のうちに、神の教会を牧し、導く牧者たちが、全時間、全力をささげて失われた者をたずね救うことができるような制度をお定めになった。神の民を託されたこれらのしもべたちは世の名誉と富を捨て、時には愛する家族、親切な友と別れ、故国を去って、遠隔の地におもむき、神のみ国の福音をのべ伝えよという召命にこたえるか。
季節を支配しておいでになる神、すずめの落ちるのをご存じの神、私たちの髪の毛までも数えておいでになる神は、ご自分がお選びになった代表者たちをも同様に大切なものとして顧みられる。神は彼らを経済的にささえるために、特に明確な制度を定めておいでになる。
 神は、牧師職を維持するために、無限の知恵をもって、だれでも理解し得る非常に単純な制度を定められた。このすばらしく単純な制度は昔も今も、牧師たちの必要を完全に満たしてきた。この制度はあらゆる環境に適合し、すべての国、すべての地方、すべての土地で採用されている。この制度はどんな人にも公平で平等で、貧しい人たちをしいたげるというのでもなければ、金持ちをえこひいきするというものでもない。

十分の一制度、神が定められた教会支持制度
 福音伝道者を維持するために神が定められたご計画は、聖書にはっきり提示されているもので、神の権威を認めるすべての人の良心に義務を負わせているものである。それは十分の一制度と呼ばれ、すべての忠実なクリスチャンに、収入と財産の増加額の十分の一を造り主に返すべきことを要求するものである。
 ヘブル人の経済組織では、イスラエルの民の収入の十分の一は、神を礼拝する礼拝式を維持するために聖別された。モーセは、「地の十分の一は地の産物であれ、木の実であれ、すべて主のものであって、主に聖なる物である。……牛または羊の十分の一については、十番目……は、主に聖なる物である」(レビ記二七ノ三〇~三二)と勧告した。
 しかしながら、十分の一制度は、ヘブルの人たちに対して制定されるよりずっと前に制定されたものだった。創世時代から、主は、十分の一を主のものとして要求しておられたのであって、地の住民たちは、このご要求を認め、尊重していたのだった。聖書には次のような記録がのこされている。アブラハムは、いと高き神の祭司、メルキゼデクに十分の一を贈った(創世記一四ノ一八~二〇)。ヤコブは兄のエサウから家督権をだましとり命からがら逃げのびる途中、ベテルで神を見いだした。ここで、ヤコブは天から地にかけられている輝くはしごを見、神に信頼すべきことを学んだ。ヤコブが悔い改めて、神の助けと導きを求めたのはここであった。彼は主の導きに従うことを約束し、造り主に対する忠誠の誓いを新たにした。主に向かって述べている彼の言葉を聞かれよ。「あなたがくださるすべての物の十分の一を、わたしは必ずあなたにささげます」(創世記二八ノニニ)。
 十分の一と任意献金制度は、被造物である人間の心に、神こそ、彼らが享受しているすべての祝福の源、この世界とその中にある万物の所有者であるということを、印象づけるために、ご自身がお定めになった制度なのである。聖書には「神はすべての人々に命と息と万物とを与え」(使徒行伝一七ノニ五)とある。神は、「林のすべての獣はわたしのもの、丘の上の千々の家蓄もわたしのものである」(詩箭五〇ノ一〇)。「銀はわたしのもの、金もわたしのものである」(ハガイ書ニノ八)と宣言しておいでになる。そして、人間に、「富を得る力」〈申命記八ノ一八)を与えておいでになるのは、神なのである。
 万物は神より生じた。ゆえに、主は、収入の十分の一は十分の一献金として主に返し、さらにささげ物や任意献金をささげるように指示を与えておいでになるのである。
 神の導きによって、モーセがレビの一族を、祭司という聖職のために聖別した時、イスラエルの子らは、十分の一献金制度によって彼らをささえるように教えられた。このほか、他の宗教的目的のためには任意献金がささげられた。荒野における幕屋の産物や、後代のエルサレムの宮殿は、イスラエルの人々の任意献金によって完成されたのであった(出エジプト記三五ノニ一~二九。歴代志下二四ノ四~一三。列王紀下一二ノ四、五)。
 荒野では、幕屋を建てるために民たちが心から進んでささげたので、モーセは命令を出して、ささげ物をもってくるのを、とどめたほどであった(出エジプト記三六ノ六)。
 十分の一と任意献金が全収入の四分の一を占めていたのであるから、ヘブルの人々はさぞ貧乏になってしまったろうと思われるかも知れないが、事実はその反対であった。記録は、寛大さがヘブル人の繁栄の条件の一つであったことを明らかにしているヘブル人が、神に与えられた物の「一部を忠実に神に返した結果として、主は食い滅ぼす者をおさえられ(マラキ書三ノ一一)、イスラエルの子らは豊かな資産を享有したのであった。

キリストと使徒たち
 キリストは、地上で人々と起き伏しを共にしておいでになったとき、十分の一の納入について、学者やパリサイ人の律法が要求しているところに矛盾があるのに気づかれて、憤られた。キリストは彼らを責めていわれた。「あなたがたは、…はっか、いのんで、クミンなどの十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な公平とあわれみと忠実とを見のがしている」(マタイ二三ノ二三)と。イエスは十分の一を納めるのを非難されたのではない。学者やパリサイ人は薬草のように安価なつまらないものの十分の一まで納めているところを見れば、非常に敬神の念があついようにみえたのだが、その反面、平気で民をしいたげていた。律法の中でもっとも重要な、公平とあわれみと忠実を、なおざりにしていたのである。「それもしなければならないが、これも見のがしてはならない」とキリストは仰せになった。十分の一制度は祝福のために定められたのであって、圧制のためではない。神は喜んでささげる者を、キリストにあるすべての祝福をもって恵まれるのである。
「あなたがたは、宮仕えをしている人たちは宮から下がる物を食べ、祭壇に奉仕している人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかることを、知らないのか。それと同様に主は、福音をのべ伝えている者たちが福音によって生活すべきことを、定められたのである」(コリント第一・九ノ一三、一四)とパウロは述べている。昔、宮の奉仕がすべてのイスラエル人の十分の一でささえられていたように、「主は」福音をのべ伝える者たちが、「それと同様」の方法でささえられるように「定められたのである。」

忠実さは十分の一によってためされる
 「地と、それに満ちるもの、世界と、そのなかに住む者とは主のものである」(詩篇二四ノ一)。それは創造と贖罪によって主のものなのである。はじめに、創造主はエデンの園の中央に善悪を知る木を置いて、私たちの最初の父祖の忠誠をためされた。人はその試みにつまずいて、天の律法に対して罪を犯した。堕落後、人間は二つの主要な事柄でもって、すなわち、神のご用に供するため持ち物の十分の一をささげることを要求する十分の一献金と、人類における時間の七分の一を要求する安息日とで試みられてきた。どちらの場合も聖書が要求しているところは実にはっきりした、明白なものである。どちらも「主のために聖なるもの」なのである。いずれにしても、神に従うことを拒む人は、危険な道を歩いているのである。神のご命令を無視することはできないからである。最後の申し開きの座で、人間の行為はさばきのために残らず提出され、再吟味される。神の戒めに故意に従わなかった人は災いである。
人間の体力、知力、才能その他すべての賜物は神から与えられているのだということを、いつも覚えよう。人間は自分の才能と知恵を誇りにする傾向がある。神は、人間のこうした傾向をご存じで、あらかじめ次のような警告を与えておいでになる。
 「あなたは、……あなたの神、主を忘れることのないように慎まなければならない。……あなたは心のうちに『自分のカと自分の手の働きでわたしはこの富を得た』と言ってはならない。あなたはあなたの神、主を覚えなければならない。主は……あなたに富を得るカを与えられるからである」(申命記八ノ一一~一八)。
 十分の一をささげるたびに責任感が各自の心に呼びさまされる。十分の一はどん欲を常に防ぐ盾である。十分の一を忠実に主に帰す人は主を忘れることができない。主に対する自己の責任を自覚する。
 神は人の子らに専横な扱いをなさっているのではない。むしろ、愛のみ手をひろげて、「わたしの宮に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさいこれをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさい」と仰せになっているのである。献金を携えてみもとに行くとき神はあふれるばかりの良き物をもって、私たちを恵んでくださるのである。天国に行くのに入国料はいらない。神に心をささげないかぎり、どれほど働いても、どれほど犠牲を払っても、どれほど苦行をしても、神の恵みを受けることはできない。そうしたことは何の功徳にもならないのである。私たちが享有するすべての祝福は自由な賜物、絶対的に自由な賜物で、無限の愛の父から下賜されるのである。
 十分の一献金自体は、人を神の国に救うものではないが、神のものを喜んで神に返す人の心に大きな影響を及ぼす。これは神が人の品性を完成し、人を栄光のみ国の家郷に備えるために定められた方法の一つなのである。
「十分の一献金」というパンフレットの中に次のように述べられている。
「十分の一献金の最高の目的は、人間の品性を啓発し、神に対する忠誠心をためすものである。強制されるのでもなく、圧迫されるのでもなく、神対自己の間の明白な良心の問題であるときに、十分の一を納めるということによって、み国に入るにふさわしい立派な品性がつちかわれて行くのである。
 聖書には、二種の財源―十分の一と任意献金が規定されている。十分の一は、私たちがこれを納めようと納めまいと、神のものである。神はみわざを進めるために必ずしもこうしたものを必要とされないが、自分のものでないものを持っているのは不正直である。
 十分の一は神に対する私たちの正当な負債であり、他の負債と同様、すみやかに、心から喜んで返すべきものである。カイザルに支払う税金が、カイザルの権威を認めるしるしであったように、十分の一を納めることは、受け取るすべての金銭に対して神の権利を認めるしるしなのである。」
 十分の一献金の霊的な面については、次のように書かれている。
「報酬が日当で、収入を増したいと思って十分の一を納めたり、律法尊重主義の精神で、いやいやながらも、納めなければならないからといった義務観念から納めたり、はじめての化学薬品をおそるおそる使う人のように不服従に伴う害を恐れてあるいは秘術をかい間みるような迷信的な気持あるいは、早く片づけてしまいたいといった不注意なお座なり気分で納めるなら、霊的生活にも品性をつちかう上にも健全な影響を期待することはできまい。」

セブンスデー・アドベンチストは十分の一制度を採用している
 セブンスデー・アドベンチスト教会は、他のプロテスタント教会に比して、それほど大規模な組織団体ではないが、ごく初期の時代から教会財政に十分の一制度を採用している。教会は、教会員のテストとして十分の一を計画したのではないが、聖書に教えられている神聖な義務と特権を教会員に指摘するものである。こうして納められる十分の一献金は、牧師をささえるためにだけ用いられるべきで、他のどのような目的のためにも用いられるべきではない。この制度のお陰で、すべての牧師は働きの場所、集会の大きさいかんにかかわりなく、月給を保証してもらえるので、当教会では他教会のように教会バザーなどの不十分な方法にたよらないですむのである。
 セブンスデー・アドベンチストは十分の一献金を納めたあとの残りの十分の九から国内伝道、外国伝道のために任意献金をし、慈善のためにささげ、教会学校や病院建設の資金を提供し、教会費を支払う。
「ソース・ブック・フォー・バイブル・スチューデント」(Source Book for Bible Students)の六〇〇ページに次のような引用文がある。
「筆者の知るかぎりでは、教会の教理、信条として十分の一制度を受け入れ、十分の一制度の律法が安息日の律法同様、現在も実施さるべきものと考えている福音的教会は世界に一つしかない。セブンスデー・アドベンチストである。教会員増加数の割合も大きいが、……十分の一制度の律法を認める財政上の成果はさらに著しいものがある」

十分の一献金は貧困をつくらない
 セブンスデー・アドベンチストは金持ちではないが、その惜しみない献金によって貧乏になったということもない。かつて世界総会の総理だったジョージ・I・バトラー氏は、「われわれは、二十五年間この問題をつぶさに見守ってきた。われわれは十分の一をささげる人々が、そうすることによって貧乏になっていったのを一度も見たことがない。彼らが、施療院にはいったり、慈善事業の対象となったりしたのを見たことがないのである。しかし、十分の一献金をごまかした多くの人たちが生活保護を受けるようになったり、非常な困窮におちいり、助けもなくひどい貧困者となって行くのを見てきた」と語っている。
 ダビデの経騒も同様だった。「わたしは、むかし年若かった時も、年老いた今も、正しい人が捨てられ、あるいはその子孫が食物を請いあるくのを見たことがない」(詩篇三七ノ二五)と彼はいっている。
 神は地上におけるみ働きを完結されるために、すべての富を自由にお用いになることができるのであるから、救いの計画をのべ伝えるために、私たちの金銭は、本当はいらないのである。しかしながら、神は大いなる聖業を完結なさるために今なお人間をお用いになる。「わが子よ、あなたの心をわたしに与えよ」というのが、今日、従う者に対する神の訴えである。神は、神の民が、イエス・キリストの福音を全地にのべ伝えるにあたって、熱意に燃え、み事業のために進んでささげることに喜びを見いだすように望んでおいでになるのである。

天の窓は今なお開かれている
 天にいます私たちの父は、地上の親たちが思う以上に、豊かな恵みと賜物を私たちの上に注ごうとしておいでになる。神がお触れになるや、天の窓の光り輝く、ちょうつがいは大きく開いて、信仰をもって待ち望む者たちの上に、豊かな恵みの雨が降り注ぐ。神は恵みを注ごうと待ちかまえておいでになるのであるから、私たちが天にいますいつくしみ深い父なる神がお定めになった計画に忠実でありさえすれば、天の窓は私たちに向かって開かれるのである。地上の子らに訴えておいでになる神のみ言葉に耳を傾けていただきたい。
「わたしの宮に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる。わたしは食い滅ぼす者を、あなたがたのためにおさえて、あなたがたの地の産物を、滅ぼさないようにしよう。また、あなたがたのぶどうの木が、その熟する前に、その実を畑に落すことのないようにしようと、万軍の主は言われる。こうして万国の人は、あなたがたを祝福された者ととなえるであろう。あなたがたは楽しい地となるからであると、万軍の主は言われる」(マラキ書三ノ一〇~二一)。

十分の一はどう計算したらよいか
 十分の一を納める人たちは、よく次のようなまちがった二様のやり方をしている。一方は、主に属している十分の一を計算する前に生活費を全部さし引いてしまうといったやり方、もう一つは、光熱費、保険、従業員の給料、家賃、財産税その他仕事の経営上毎月きまっている経営費をさし引かないで総収入の十分の一を納めるといったやり方である。もちろん、それが希望なら、総収入の十分の一を納めることにさしつかえはない。が、経営費は十分の一を計算する前にさし引いてよいものなのである。

月給収入
 月給収入の十分の一を計算するのは最も簡単である。月給取りには普通業務上の経営費というものがなく、毎週あるいは毎月規則正しく給料を受け取るからである。仕事のための電車賃、それもバスか電車か車でよほど遠くにでも行くのでないかぎり、多くのクリスチャンにとっては、さし引くにはあまりに少額なもの、を除いて、業務費と考えられる費用はないのであるから、月給取りはみ事業のためにいくらささげるかを比較的はっきりきめることができる。
 ここに、「働き人は『手取り額』の十分の一を納めるべきか、それとも、所得税その他同様な類の支出がさし引かれる前の総収入額の十分の一を納めるべきなのか」といった疑問が生ずる。
 源泉課税は単に所得税を先に支払うにすぎないのであるから、十分の一は、控除がなされる前の総収入額で計算されるべきである。
 世界総会委員会は「教会のすべての信徒に教会は最善の知識に従って、ごく初期の時代から働きを推進してきた原則を固く守り、月給からさし引かれる所得税その他の支出が、神がご自分のために取っておいでになる分に影響を及ぼすことのないようにつまり、月給または所得全額の十分の一を、所得税による控除や支出をさし引かないで納めるようにと勧告する」という決議をした。
日給 八、〇〇〇円の月収(二十六日)二〇八、〇〇〇円
十分の一(十パーセント) 二〇、八〇〇円
十分の九 生店費、献金、所得税、その他の目的のため一八七、二〇〇円

商売
 卸し売業者や小売業者は、純益さえわかっていれば十分の一を計算するのは、なんでもない。全収入を漏れなく記帳しさらに、店員、従業員の月給、光熱費、在庫品の保険、借り店舗ならばその家賃自分の店なら、財産税など、商売上必要な諸費用を記帳しておけばよい。

例1 商売
物品売却高 3,000,000円
物品原価(在庫品を除く) ……2,250,000円
荒利益……750,000円
 経費
  店の家賃……70,000円
  借入れ金利息……50,000円
  光熱費……30,000円
  保険……30,000円
  給料支払い……200,000円
  雑費……20,000円
   経費合計……400,000円
    純益……350,000円
   十分の一……35,000円
   十分の九 生活費、所得税、献金その他……315,000円

農業
 農業に従事している人は、自分が買ったり、売ったりしたものを全部正確に記帳しているはずだし、農業器具の修繕費、肥料、労賃、田畑の借り代、財産税、利息、建物の修繕費などの支出も記帳しているはずである。こうした費用は十分の一をきめる前にさし引いてよい。
 一方、純益を計算する時に、田畑から収穫した農産物と、野菜、酪産物、乳製品、卵、その他、一年間に家で使ったものを概算するのを忘れてはならない。これは家族の生活費となるからである。こうした品目は正しく現金換算をして、これを田畑からあがる正規の収入に加算することができる。こうした方法で全収入が算定される。

例2 農業
殻類の売価 ミルク、バター、卵その他を含む……7,000,000円
家で使用した農産物、ミルク、卵、青果類、 妥当な価額で概算したもの……300,000円
  総収入……7,300,000円
 支出
  家蓄飼料……400,000円
  労賃(自分以外の人の) ……960,000円
  種代 麦、燕麦、とうもろこし、馬鈴薯、青果類その他……400,000円
  器具修繕費……70,000円
  税金……180,000円
  器具……300,000円
  打殻費……300,000円
  借入れ金利息(5,000,000円につき7分) ……350,000円
  雑費……200,000円
  一年間の経営費……3,160,000円
 器具の交替
  新しい草刈り機 古いのと交替……200,000円
  新しいすき 古いのと交替……70,000円
  その他諸器具 古いのと交替……100,000円
  交替のための総費用……370,000円
   総支出……3,530,000円
  年間純収入……3,770,000円
  十分の一……377,000円
  十分の九 生活費、献金、所得税 その他のため……3,393,000円

製造業者
 製造業者は、十分の一を納めるために、農業に従事している人と同じ方法で、純収入を計算することができる。年間総収入額から(自分に給料を出している場合には)、自分の給料をのぞく全雇用者の給料、市場取引のための費用、広告、宣伝費、工場椎持費、商売を認可してもらうのに必要な費用、修理費、自分のものなら財産税、借りているものなら貸借料、その他、同様な商売経営上必要な費用等、製品生産売却にかかる全費用をさし引けばよい。年間総収入から支出総額をさし引き、残りの純益の十分の一を納めればよいわけである。

投資家
 株券、債券、不動産その他のように、投資から収入を得て暮らしている人がある。すべての取引の完全な記録が記帳されてさえいれば、こうした収入の十分の一をきめるのは簡単である。株券を持っているにせよ、債券を持っているにせよ、そのどちらをも持っているといった場合にせよ、皆割増金付きで売られて、利益になるのである不動産もまた利潤つきで売られる。一方、急場の時、あるいはその他の事情で、株券や債券を損して売るといったこともあり得る。株券や債券の場合はその年利が年間総収入となるわけであり、ほかにも投資したり、不動産を貸している場合は、年末にその投資からあがる利得と、不動産の貸し代、それに株券、債券の割増し額をプラスしたものが総収入となる。これから、財産維持費、財産税、抵当の利息その他の支出を引く、こうした方法で十分の一を納めるために、純収入を簡単に計算することができる。純益の十分の一は主のものである。

専門家
 専門的な職業にたずさわっている人の十分の一を計算するのは非常にむずかしいように思われるらしいが、実際はその反対である。支出と集金の記録さえ記帳されていれば、専門的職業費すなわち、事務所を借りているとすればその借り代、自分の所有物なら財産税秘書ならびに簿記係の給料(開業医か歯科医の場合は、看護婦や受付係の給料、実験費、医療費)、仕事のための車代、旅費その他を含む一切の支出をさし引いたあとで、残りを調べるのは簡単である。十分の一は純益すなわち集金総額から支出総額をさし引いたものをもとにして算定すればよいのである。

例3 開業医または歯科医の場合
現金 1ケ月の総受領高……1,700,000円
 経費
  診察室の借り代……200,000円
  看護婦……140,000円
  診察室経費……100,000円
  試験費 医料費……200,000円
  旅費 臨時費……50,000円
  雑費……50,000円
  仕事のための車代……150,000円
   経費合計……890,000円
  1ヶ月純収入……810,000円
  十分の一……81,000円
  十分の九 生活費、所得税 献金その他のため……729,000円

収入のない既婚の婦人
 主人が十分の一を納めるということに対して信仰を持たず、納めることを許さないといった場合、その妻たる女性にとっては、十分の一献金の問題が非常に深刻な問題となる。家庭内の食物や衣類の切り盛りをまかせられている時でもこの金は自分のものではないと考えるのである。農業に従事している場合は、農産物を栽培して、そのいくらかを売り、十分の一を納めることができる。またそれ以外の方法で金を得る機会も得られよう。そういった余分の収入が得られないでも、パウロがコリント人に書き送った、「もし心から願ってそうするなら、持たないところによらず、持っているところによって神に受けいれられるのである」(コリント第二・八ノ一二)ということばの中に慰めを得ていただきたい。
 十分の一献金について何か問題をもっている方々は、遠慮なく教会の牧師に相談されるとよい。祈りによってすべての問題の解決策を見いだせると思う。十分の一献金において主にどれだけ返すべきかということを、公平に正確にきめるには、常にこの方法がある。私たちは、「捜せ、そうすれば、見い出すであろう」といわれているのである。

発行者 横浜市旭区上川井町846
セプンスデー・アドベンチスト教団 スチュワードシップ部