第1課 安河内アキラ

2016年 第2期 マタイによる福音書

第1課 ダビデの子

今週の聖句  マタイ1章、マルコ12:35~37、イザヤ9:6、7、ローマ5:8、ヨハネ2:25、エレミヤ29:13、マタイ2:1~14

今週の研究  主はマタイの心をご覧になって、彼が徴税人であるにもかかわらず、弟子たちの1人になるように選ばれました。そしてマタイは、召されたとき、イエスによる新しい人生のためにこれまでの生活を捨て、召しを受け入れました。
 こうしてマタイは主に従い、記録を残し、ある日、同胞とこの世の人々たちに何かを返しました。それは税金の領収書ではなく、イエスの生涯に関する貴重な物語でした。

序 言:霊感によるイエスの物語が、私たちの今期の主題であるマタイによる福音書の中に記されています。イエスを信じたユダヤ人であり、イエスの最初の弟子の1人であったマタイは、聖霊を受けた彼自身の視点からイエスの物語を詳しく述べています。マルコ、ルカ、ヨハネの各福音書にも共通しているように、マタイの主題は、イエスの受肉、生、死、復活、昇天です。しかし、マタイが強く焦点を合わせているのは、イエスが約束されたメシアであるという事実です。彼は読者に、イスラエルの救いはイエス―預言者たちが語り、旧約聖書のあらゆる型が指し示していたお方―の中に見いだされることを知ってほしいと願っていたのです。

月曜日:メシアの到来に関してユダヤ人がさまざまな見方をしていたとしても、一つだけ確かなことがありました。メシアはダビデの家から出る、ということです。マタイがあのような形で彼の福音書を書き始めたのは、そういう理由からでした。彼は、メシアとしてのイエスの身元を明らかにしたかったのです。メシアはユダヤ民族の父アブラハムの子孫であり(創22:18、ガラ3:16)、ダビデの家系に生まれることになっていました。それゆえ、マタイは直ちにイエスの家系を記し、いかに彼が(ほとんどのユダヤ人が関係する)アブラハムだけでなく、ダビデ王に直接結びついているかを示そうとします。多くの注釈者は、マタイがおもにユダヤ人の読者(聴衆)を想定しており、だからナザレのイエスにメシアの資格を与えることを重視しているのだ、と考えています。

木曜日:マタイによる福音書の1章と2章の間のある夜に、イエスはお生まれになりました。それは12月25日ではなかったようです。祭司ザカリアの神殿での務めの時期を根拠に、イエスがお生まれになったのは、羊たちがまだ野原で過ごしていた秋、たぶん9月の末か10月だろうと、学者たちは述べています。
 ユダヤ人のメシアを最初に探し出し、礼拝した人たちの中に異邦人がいたというのは大きな皮肉です。イエスの同胞の多く(とユダヤ人の血を半分引く被害妄想のヘロデ王)が、自分たちはどんなメシアを期待すべきか知っていると思い込んでいたのに対して、東方から来たこの旅人たちは、偏見のない考えと開かれた心を持っていました。この博士たち、つまり占星術の学者たちは、真理を探し求めることに身をささげていた、ペルシア出身の尊敬すべき哲学者でした。そして彼らは、自分たちが確かに「真理」なるお方を礼拝していることに気づいたに違いありません。背景は異なりますが、私たちはここに、何世紀も前に語られた言葉が真実であることの一例を見ることができます。「わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう」(エレ29:13、14)

金曜日:イエスの人間の系図にある人々と同様、私たちは恵みを必要としている罪人です。律法を守ること、罪や誘惑に打ち勝つこと、キリストにあって成長することは、クリスチャン生活の一部ですが、それらは救いの結果であって、救いの原因ではありません。十字架上の強盗であれ、イエスの再臨の際に昇天させられる聖人であれ、私たちはみな「神の救いの力が必要な」「まったく無力な状態」にあります。この基本的な真理を忘れないことは、なんと重要でしょうか!

 今期はマタイによる福音書を学びます。ここ数年、聖書の書簡について学ぶ時は、内容の順番よりも主題に沿って学びをしてきていますが、今期はおおむね1章から順番に学びが進んでいます。
 マタイの名前が聖書の中に出てくるのは、12弟子の名簿以外には、マタイが弟子として召される場面(マタイ9:9~、マルコ2:13~、ルカ5:27~)と、キリストの昇天後に弟子たちが街へ戻って来た時の名簿に名前があります。(使徒1:13)
 このマタイが召された場面の聖句を見ていると、どの記述も取税所に座っている彼をイエスさまが声をかけて弟子に召されました。ルカによる福音書だけは「彼は何もかも捨てて立ち上がり」とあります。(ルカ5:28) 彼は取税人として、おそらく多くの収入があったのでしょう。召された後に、彼はイエスさまご一行を自宅を招いて宴席を設けています。それができるだけの財力があったのでしょう。
 数日前に、恩師であった故鈴木重張先生のことを思い出していました。先生は引退後、老後のために蓄えて来られたものを、アジアの学校やPMMで来日した先生方を助けるためにささげられました。今でも同じように各地から福音宣教のために必要が訴えられています。けれども、果たしてわたしは自分の老後の資金をそこにささげることができるでしょうか。
 わたしは各地で超高齢化社会に関する講演会などをさせていただいていますが、そこで「介護はお金をいくらかけるかにかかっています」などと話しています。介護の働きをしていると、資金さえあれば助けられるのにという利用者に何度も出会いました。そのような事例を見ていると、自分のわずかな貯金を崩してまでと、なかなか思うまでには至りません。そんな不信仰なわたしです。
 神さまを信頼する人を、必ず守ってくださると約束しています。マタイはその約束に信頼して、それも一瞬のうちにその招きに従いました。これはたった一行で書かれていますが、ものすごいことではないでしょうか。そのようなマタイが書いた福音書を今期は学びます。