第10課 安河内アキラ

2016年 第2期 マタイによる福音書

第10課 エルサレムでのイエス

今週の聖句 ゼカリヤ9:9、マタイ21章、ローマ4:13~16、黙示録14:7~12、使徒言行録6:7、マタイ22:1~14


今週の研究  私たちは今週の研究で、イエスがエルサレムにやって来られたときの主要な出来事と教えとに目を向けます。彼がエルサレムに来られたのは、多くの人が望んでいたように地上の王になるためではなく、「わたしたちの罪のために……罪とされ……、わたしたちが、彼にあって神の義となるため」(Ⅱコリ5:21、口語訳)でした。


火曜日:マタイ21:18~22を読んでください。イエスがいちじくの木を呪われたのは、ユダヤ人の指導者の多くが、最終的、かつ決定的に、自分たちの播いたものを刈り取るだろうことを行為でたとえるためでした。しかし私たちは、このたとえがすべての宗教指導者を指していなかったという点を覚えておく必要があります。実際、彼らの多くがイエスをメシアとして信じました。「こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った」(使徒6:7)とあります。しかし、いちじくの木が実をつけなかったように、神殿の働きも実をつけることなく、まもなく無効になるでしょう。


水曜日:イエスが引用された詩編118:22、23に注目してください。「退けた石」の預言を引用したとき、イエスはイスラエルの歴史の中で起こったことを語られました。その出来事は第一神殿の建設に関係することでした。ソロモンの神殿が建てられたとき、壁や土台のための巨大な石は、すべて採石場で用意されました。それらの石が建物に搬入されたあと、一つの道具もそれらに用いられなかったので、槌やつるはしの音はまったく聞こえませんでした。職人たちは置くべき場所に石を置くだけでよかったのです。土台に用いるため、並外れた大きさで、独特な形をした一つの石が運び込まれました。しかし、職人たちはその石の場所が見つけられず、受け入れようとしませんでした。それが用いられずに邪魔になっているのは、彼らにとって迷惑でした。長い間、それは「退けた石」のままでした。
 「建築家たちが隅のおや石を据える段になると、この特別な場所を占め、その上にかかる巨大な重みに耐えるのに十分な大きさと力と独特な形をした石をみつけるために、彼らは長い間さがした。……しかし最後に、長い間捨てられていたあの石に注意が向けられた。……石は受け入れられ、指定された場所へはこばれ、ぴったりと合った」(『希望への光』984、985ページ、『各時代の希望』下巻42ページ)。


木曜日:礼服はキリストの義を、つまり聖なる者たちの人生や行動においてあらわされる義を象徴しています(黙19:8参照)。その礼服を着ていない人は、恵みと救いの特権を自分のものとして要求はするけれども、福音によって自分の生き方や品性を変えられてこなかった名ばかりのクリスチャンを象徴していました。すべての準備は大きな代償を払って、招待を受け入れる者たちのためになされたのです。このたとえ話が次に示しているように、神の国に入ることには、その入り口までやって来るよりもずっと意味があります。


 今週は、受難週のできごとについて学びます。教課の本文中にも書かれています、この一週間ではキリストが大変厳しいことをおっしゃっている場面もあります。けれどもそれは、水曜日の学びの最初に書かれていますが「もしあと数日しか生きられないとしたら、あなたはその数日を用いて何をするでしょうか。イエスがなさったことの一つは、聞く者たちに大きな影響を残す物語を語ることでした」。 このような思いでイエスさまが語っておられる、このことを理解すると言葉の意味が伝わってきますね。
 暗唱聖句と水曜日の学びで、隅のおや石について学びます。キリストのことを理解しようとせずに受け入れなかった民に対して語られた警告です。火曜日の引用文にも書かれていますが、わたしたちがイエスさまを救い主として受け入れること、これはわたしたちがすることなのです。イエスさまは最後の一週間で、一人でも多くの人が救い主を受け入れるように、最後の働きをしています。そのようなイエスさまの心を思いながら、この部分を学ぶと、みことばからの光がより伝わるのではないでしょうか。