第10課 平田和宣

2016年 第2期 マタイによる福音書

第10課  エルサレムでのイエス

平田和宣

はじめに
 今週の研究は、十字架直前のイエス様のエルサレム訪問時に起きた出来事と教えについてです。

日曜日 預言されたメシアの到来
 ハガイの「この新しい神殿の栄光は昔の神殿にまさる」という預言は、約束されたメシアがこの新しい神殿に来られることを意味していました。また、ゼカリヤの「あなたの王が来る」「ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って」という預言は、イエス様のエルサレム入城によって成就しました。そのような徴を伴って来られたにもかかわらず、ユダヤ人たちは間違ったメシア概念を持っていたため、イエス様を拒否してしまいました。彼らは、イスラエルを独立国家に復興させる王としてのメシアを期待していましたが、イエス様がなさろうとしておられたのは御自分の犠牲を通して人々を罪から救うことでした。主の十字架を我がためと信じ、神に全てを委ねる自己否定にのみ真の救いと平安があることを、私達も覚えたいものです。自我に凝り固まった自己実現などに、決して救いはありません。

月曜日 神殿でのイエス
 父祖たちの動物犠牲、荒野の幕屋、ソロモンの神殿、捕囚から帰還後の神殿。これらの犠牲制度を通して福音は昔からずっと啓示されてきました。この制度を通して、失敗をしてしまった時にどうしたら良いのか、人類を救って下さるメシアがやがて来られる等、尊い希望が語りつがれるはずでした。しかし残念なことにイエス様がこの世に来られた時代、祭司たちの堕落により犠牲制度の神聖さは失われていました。神殿は金儲けの場となってしまっており、祈りのための静けさは失われていました。そしてはびこる律法主義的、空虚な信仰(?)。そこにはもはや「命」が無い! そこでイエス様は普段お見せにならない厳しさを表わし、宮清めをされたのでした。

火曜日 ならない実
 しばしば納得がいかないとされるイエス様の行動がこれです。罪の無いいちじくの木を呪われるなんて! しかしここに表わされた厳しさは、宮清めの時に表わされた厳しさと重なります。この時、季節はいちじくの実がなる季節ではありませんでした(マルコ11:13)。しかし教訓を残すために、この奇跡は行われました。葉ばかりが茂り実を実らせていないその様子は、見せかけだけの儀式は行っているが堕落してしまいその本質を見失っているユダヤ人たちを表わしていました。そして約束のメシアを拒否してしまう始末。彼らに託されていた使命が重要なだけに、その責任は非常に重い。私達も他人事ではありません。真の安息日が知らされ、証の書が与えられ、三天使の使命が知らされている。その祝福を充分に味わい、それを他の方に伝える責任が与えられている。祝福が大きい分、責任も重いです。

水曜日 石
 「ぶどう園と農夫」の譬には、「忘恩的な農夫たちの上に加えられた報復のうちに、キリストを死刑にする者たちの運命がえがかれていた」(『各時代の希望・下巻』40頁)。憎しみを込めてではなく、憐みの思いを込めて、「救い主は、彼ら(ユダヤ人)の危険が示されている預言に彼らの注意を呼び起こされた。主は、可能なかぎりあらゆる手段をつくして、彼らがしようとしている行為の性格を明らかにしようとされた」(同上、40~41頁)。ソロモンの神殿が建てられた時、最初捨てられた石が最終的にはとても重要な存在、隅の親石となったという事件を取り上げて、御自分がその石なのだとイエス様ははっきりとユダヤ人たちに告げられました。イエス様を拒否するなら、確かに滅びが待っていることを主は訴えました。しかし彼らは悔い改めようとせず、心を頑なにしてしまいました。神様が私達の罪を指摘される時に、素直に悔い改めることができますように。

木曜日 恵みの代償
 「王の婚宴」の譬は、ユダヤ民族が福音を拒んだので、異邦人にそれが伝えられたことを教えています。しかし福音を拒んだことにより、ユダヤ民族に恐ろしい罰が与えられることも忘れてはならない点です。同様に、神へ立ち返るようにとの招きと罪の赦しが長い間提供されていたにもかかわらず、それを受け取ろうとせず自分勝手に人生を送った者には、最終的には滅びが待っていることを覚えたい。礼服は「聖なる者たちの人生や行動においてあらわされる義(品性)を象徴しています」。礼服を着ていない者とは、「福音によって自分の生き方や品性を変えられてこなかった名ばかりのクリスチャンを象徴していま」す。私達の品性が清められるのは、神の御力のみによります。御言葉で心を照らして頂き、主の十字架にすがって罪を告白し、癒しと清めを祈り求め、御国への良き準備をして参りましょう。