第11課 安河内アキラ

2016年 第2期 マタイによる福音書

第11課 終末時代の諸事件

今週の聖句 出エジプト記19:5、6、マタイ23章、ヨハネ12:20~26、マタイ24章、Ⅰテサロニケ4:16


今週の研究  私たちは今週、マタイ23章に記録されていることに目を向けます。そこには、一部のユダヤ人指導者に対するイエスの最後の訴え―悔い改めて救いの唯一の希 望である私を受け入れなさいという訴え―が記されています。続く24章においてイエスは、再臨の前に起こる出来事についての質問に答えられました。再臨に先行する事柄とエルサレムの滅亡を結びつけながら、イエスはかなり厳粛な状況をここで描写しておられます。


日曜日:マタイ23章は、愛する者との和解を願うイエスの最後の必死の訴えでした。しかし、彼が愛する者は去ってしまいました。イエスは彼女の決心を受け入れ、最終的に2人の家(神殿)を出て行かれました。「見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる」(マタ23:38)と、彼は言われました。イエスが神殿を去られたとき、そこは、主が彼らを最初に救い出された荒れ野のように、荒れ果て、人気なく、見捨てられた場所となりました。
 救済史における大きな変化が起きようとしていましたが、これらの指導者たちも、彼らにあざむかれる人々もそれを見逃します。一方で、聖霊の導きに心を開いた多くのほかの人(ユダヤ人、そしてやがて異邦人)たちは、偉大な働き、イスラエルの使命を継続します。彼らはアブラハムの真の子孫、「約束による相続人」(ガラ3:29)になります。今日、私たちも、神からの同じ使命を共有する同じ民の一員です。


水曜日:自称キリストが大勢あらわれるという警告のあと、次にイエスは、再臨が実際にどのような様子であるかを描写しておられます。
 第一に、イエスの再臨は、本人が実際にやって来ること、文字どおりのことです。地球に戻って来られるのはイエス御自身です。「主御自身が天から降って来られます」(Ⅰテサ4:16)というのは、キリストの再臨は想像上のことだとか、人類史における一つの新しい時代にすぎない、と主張する者たちに対する明白な反論です。再臨は、空にひらめき渡る稲妻のように目に見えます。「すべての人の目が彼を仰ぎ見る」(黙1:7)。ラッパの比喩は、それが死者さえも目覚めさせてしまうほど騒々しいことを明らかにしています。そして最も重要なことに、初臨において、イエスは屈辱をお受けになられましたが、再臨においては、「すべての敵」(Ⅰコリ15:25)に勝った勝利の王として来られます(黙19:16)。


木曜日:私たちは、主がいつ戻って来られるのかを知らないからこそ、用意をし、「目を覚まして」いなければならない、と言われているのです。
 マタイ24:42~51を読んでください。イエスはここで、目を覚ましていること、再臨に備えることの意味について語っておられます。イエスははっきりしておられます。私たちには、彼がいつ戻られるのかわかりません。それどころか、彼は、私たちが予想していないときに来られるでしょう。それゆえ、彼がいつ戻って来てもいいように、私たちは準備をする必要があります。たとえ私たちにその時がわからなくても、彼がいつ戻って来てもいいように、私たちは生きる必要があります。「彼は当分帰って来ないから、私は好きなようにできるのだ」という思いは、まさにイエスが警告しておられる態度です。私たちは主を愛し、彼によって正しいことをしたいと思っているのですから、彼がいつ戻って来られようと、忠実であろうとする必要があります。さらに、裁き(とりわけ、ほかの人をひどい目に遭わせる人々への裁き)に関する聖句がいくらあっても、再臨のタイミングはさして重要ではないでしょう。遅かれ早かれ、裁かれるからです。


 今週はマタイ23章と24章について学びます。24章は再臨の時などについて書かれているので、わたしたちの教会ではよく用います。けれどもその前の23章については、あまり目を向けていないかもしれません。
 今週の暗唱聖句は23:12節の「へりくだるように」というメッセージです。「謙遜」、それは聖書全体に書かれているメッセージです。自分は大丈夫と思っている時に、わたしたちは失敗をすることが多いではないでしょうか。謙遜であれば、多くの誘惑や危険に陥ることが防げます。
 23章1~36節まで、キリストはファリサイ派のことを厳しく譴責しています。この言葉をわたしたちはどう読んだらよいのでしょう。この厳しい言葉をあまり見たくないので、飛ばしてしまうことすらありますよね。それとも、わたしたちには関係のないことでしょうか。1~12節に書かれている譴責の言葉、「言うだけで行わない。上席に座ることを好み、先生と尊敬されて尊大にふるまっている」などは、わたしたちも同じような誘惑に負けてはいないでしょうか。
 12節の前に書かれている、「いちばん偉い人は、仕える者になりなさい」という勧め、この思いを心に銘じて、日ごとに忘れず実行して行かねばなりません。このような行いが、地上において天国を実現することではないでしょうか。