第12課 山口豊

2016年 第2期 マタイによる福音書

第12課  イエスの最後の日々

はじめに
 今週は、イエスが十字架にかかる直前の出来事から学んでいきます。今週焦点をあてるのは、自由と自由意志です。私たちは賜物として自由と自由意志が与えられています。それを用いて選択をするように迫られています。イエスも選択をなさいました。イエスは御自分の自由意志を用いて、私たちを滅びから救うか救うまいかを選択されたのです。それを知る私たちが自分の自由意志で行う選択は、重大で、永遠にわたりさえする結果をもたらします。

日曜日  「良いこと」
 クリスチャンは「良いこと」をする人たちと一般には考えられています。私たちクリスチャンは、「良いこと」をするためにイエス・キリストを信じているのでしょうか。この極めて高価な香油の入った石膏の壺を割り、イエスに油を塗った女性は、「良いこと」をしたかったのでしょうか。彼女の行動は、イエスから受けた真実で深い愛が、彼女の心を満たしあふれていたことの証拠でした。多く与えられたことを感じていた彼女は、この高価な油をイエスに塗ったとしても、もったいないとか意味がないとは思わずに、イエスから受けたことの応答として行動しました。

月曜日  新しい契約
 過越祭と十字架の関連から考えてみましょう。出エジプトの物語は、贖い、救出つまり、自力でそうできない者たちのために神がなさる業を現していました。そしてそれは十字架と重なります。そして十字架のほうがより重要なことを教えてくれます。エジプトからの救出は、神の支配権とその力のすばらしい現れでしたが、十字架は私たちに本当に必要な永遠の命を与えてくれます。食事の時にイエスが言われた言葉は、ぶどう酒とパンの本当の意味を教えられ、イエスの十字架の意味を深く考え、私たちの目を再臨までではなく、それ以降の世界にまで目を向けるようにしてくださいます。

火曜日  ゲツセマネ
 ゲツセマネで祈られたイエスは何をおそれていたのでしょうか。それは、神との隔離でした。罪を犯す者は神と離れなければならないことをよくご存知でした。神の聖なる律法の違反は深刻で、その違反者は死ななければなりません。私たちが罪のないものとされるには、罪を知らないイエスが、神から隔離されなければなりませんでした。ゲツセマネは、罪が引き起こす結果の怖さと、その結果から私たちを救いたいと願うイエスの強い思いを感じることができます。イエスの流された血の汗は、目の前の死から逃れたいために苦しまれたのではなく、罪の引き起こす結果の恐ろしさを現しています。イエスの望まれたことは、愛する人が一人もそのような結果をたどることなく、御自分と一緒に御国でともに過ごすことです。

水曜日  ユダ、魂を売る
 イスカリオテのユダの名前は、裏切りと背信に結びつけられています。ユダがあのような過ちを犯してしまった原因は、自分自身をすべて主にささげようとしなかったことにあります。何らかの罪や性格的短所を手放さず放置したことが、サタンに付け入るすきを与え、あのような結果を迎えました。自由意志による選択は時には厳しい結果を引き起こすことを示しています。たった銀貨30枚、一ヶ月分から四カ月分の給料に目がくらんだとしても、そしてそれがそれの何倍何十年分の給料だとしても、イエスから目を背けさせ、魂を失わせるものはなんでも、価値のないものなのだと示しています。

木曜日  ペトロの否認
 ペトロがイエスを知らないと言ったのはただ恐ろしいからではなく、自分自身の理解に信頼を置いていたことから起こりました。イエスのために命を捨てると言った通り剣を持ってローマ兵に向かって行きました。しかし、イエスがそこで捕まり裁判を受けるとなった時に、自分の理解の範囲を超えてしまいました。人間の理解力で神のなさることを全部理解することはできません。私たちの心が完全にイエスに服従しないかぎり、どんな奇跡も私たちが神に忠実でいさせることはありません。私たちは、自由意志により選択をできます。イエスは私たちを「見つめて」おられます。私たちは、イエスの思いを知り、あふれるほどに与えられる恵みを受けて、自由意志により選択をしたいと思います。