第13課 安河内アキラ

2016年 第2期 マタイによる福音書

第13課 十字架、そして復活

今週の聖句 マタイ27:11~26、ヨハネ3:19、イザヤ59:2、マタイ27:45、46、49~54、ヘブライ8:1~6、マタイ28:1~20


今週の研究  私たちは今週、マタイによる福音書の最後の数章を通して、私たちの主の死と復活に関する尽きぬ真理と、これら二つの出来事が私たちにもたらす希望について研究します。


月曜日:イエスは罪の結果を、父なる神からの完全な隔離の結果を、御自身の身で体験しておられました。彼は私たちのために、私たちが受けるはずであった罪に対する裁きを受けていたのでした。「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです」(ヘブ9:28、さらにⅡコリ5:21も参照)。
 これはふりではありませんでした。イエスは罪に対する神の怒りを本当に耐えていました。私たちの罪に対する罰が彼の上に下され、彼の魂を狼(ろう)狽(ばい)と恐怖で満たしました。イエスは御自身にかかる私たちの罪の重みに耐えておられました。私たちが赦されるためには、父、子、聖霊の神のうちのお1人が罪の罰に苦しむ必要があったのですから、神の目に罪はなんとひどく映ったことでしょう。
 しかし、このような恐怖の中にもかかわらず、イエスは「わが神、わが神!」と叫ぶことがおできになりました。その身に起こっていたあらゆることにもかかわらず、イエスの信仰はもとのままでした。苦しみを味わい、父なる神に見捨てられたと感じたにもかかわらず、彼は最後まで忠実でした。


火曜日:マタイは、垂れ幕が裂けたことだけでなく、岩が裂け、墓が開き、死者の中で復活した者があったことも記録しています。それらはひとえに、イエスが私たちの罪の身代わりとして死ぬことで成し遂げられたことの成果として起こりえた出来事でした。つまり、私たちはマタイによる福音書のここで、古い制度では起こりえなかったことが起きているのを見ています。「雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができないからです」(ヘブ10:4)。言うまでもなく、イエスだけが罪を取り除くことがおできになり、私たちにとって、イエスが私たちの罪を取り除くことの大いなる結果、大いなる約束が、死からの復活です。その約束がなければ、私たちには何もありません(Ⅰコリ15:13、14、19参照)。昔のこれらの復活(人数はわかりませんが)の中に、私たちはこの時代の終わりにおける私たちの復活の希望と約束を見ることができるでしょう。


木曜日:エレン・G・ホワイトは、イエスが復活されたあと、ガリラヤのその山には500人ほどの信者が集まっていたと述べています(Ⅰコリ15:6参照)。イエスの宣教命令は弟子たちだけでなく、すべての信者に対してのものでした。「救霊の働きが牧師だけに負わされていると考えるのは重大な誤りである。天の霊感を受けた者はすべて福音をのべ伝える責任が負わされる。キリストの生命を受ける者はみな同胞の救いのために働くように任命される。教会はこの働きのために設立されているのであって、聖なる誓約によって教会に加わるものはみなそのことによってキリストと共に働く者となることを誓ったのである」(『希望への光』1110ページ、『各時代の希望』下巻368ページ)。


 今週の暗唱聖句は、キリストがガリラヤで語られた言葉です。とても有名な大宣教命令の前の聖句です。大宣教命令の前提と言っても良いでしょう。父なる神さまからすべての権能を授かったキリストが、弟子たちやわたしたちに全世界へ出て行くように命じています。マタイによる福音書は昇天までは書かれていません。いつもわたしたちとともにいてくださるという約束で終わっています。神さまの守りを信じて復活されたキリストを全世界へ伝えるようにという、マタイを通してわたしたちへ与えられているメッセージです。
 けれどもその前の節、マタイ28章17節で「しかし、疑う者もいた」とあります。これは文脈から見ると十一人の弟子なのでしょうか。それとも十一人の弟子たちと一緒にイエスさまに従ってきた人たちの誰かなのでしょうか。イエスさまがガリラヤで弟子たちに会ったのは、ヨハネの福音書で日曜日の夜に二週続けて弟子たちにイエスさまが会った後です。復活されたイエスさまに直接会った、または会った仲間がいてもなお疑う人がいるというこの一文は、復活は「信じる」しかないことを教えていますね。信じることによって復活はあなたのものとなるのです。そしてわたしたちの生き方を変えて行きます。復活の主を伝えるためにも、わたしがしっかりと復活を信じること、それは永遠の天国を信じることにもなるのです。