第13課 平田和宣

2016年 第2期 マタイによる福音書

第13課  十字架、そして復活

はじめに
 今週は、イエス様の十字架による死と復活の出来事について学びます。

日曜日  イエスかバラバか
 ピラトはイエス様に何も罪を見出せなかったので無罪釈放にしようとしました。そして、悪名高い囚人バラバ・イエスを引き出し、メシアであるイエス様とどちらを釈放すべきか群集に尋ねました。が、何と驚くべきことに群集はバラバを釈放し、イエス様を十字架につけるように要求してしまいました。この群集について「なんて愚かなことを!」と私達は思うかもしれません。しかし、もしも私達が神の御心を理解しようとせず、この世のことに夢中になって過ごしているとすれば、そして今から二千年前のその場に私達がいたとすれば、知らない間に群集と共に「十字架につけろ!」と叫ぶ側にいることになるのかも知れません。イエス様はこの世に望みをおく私達や当時の群集の期待を全く裏切り、この世の栄華をあきらめるようにお教えになられたからです。今、私達の立ち位置はどこでしょう?

月曜日  十字架につけられた私たちの身代わり
 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。暗闇に包まれた十字架上のイエス様が語られたこの言葉は深い瞑想に値するものです。また、注意深く理解すべき言葉です。なぜならイエス様は私たちと同じ人間になって下さいましたが、しかし私たちとは違う方だからです。何が違うのか。いろいろ違いますが、何と言っても父なる神と共に生きることの真の喜び・平安を御存じの方だという点が私たちと大きく違う。私たちはと言えば、その点についてはあまりにも怪しいです。そのお方が人類の全ての罪を背負い身代りとなられ、父なる神との断絶を経験された。その苦しみは、恐らく、救いも夢も希望も無く、全くの孤独と絶望、恐怖の内に死んでゆかなければならなかった、私たちの経験するはずだった苦しみの全人類分のものなのでしょう。このお方、主イエス様の十字架によって私を憐れんで下さいと祈るとき、私は救いと赦しを感じ取ります。そして生きる勇気が湧いてきます。

火曜日  裂けた垂れ幕と岩
 マタイ27:49~54を読むと、イエス様の十字架上の最期は決して静かなものではなかったことが分かります。大声で叫び、息を引き取られた瞬間、神殿の聖なる垂れ幕がビリビリーッ!と上から下まで裂け、地震により大地が揺れ動き、岩が裂け、墓が開いて聖なるものたちが生き返ったと書かれています。しかも真っ昼間にもかかわらず全地は闇に覆われていました。数々のはっきりとした徴が伴っていた訳です。そしてこれらの様子を見ていた百人隊長は「この人は神の子だった」と告白しました。しかしそれでも信じようとしない人達が大半でした。もはや言い逃れができないほど、イエス様が神の子であると認めるための条件がそこかしこに提示されていました。私たちも自分自身の責任において判断しなければなりません。イエス様は本当に神の子なのか、どうなのか! 徴はたくさん与えられています。
水曜日  復活されたキリスト
 イエス様は本当に復活されたのか。使徒パウロは、「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし…わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です」と記しています。もしもイエス様が復活されていなかったとしたら、なかったことを命がけで「あった」と言い広めた弟子たちは大嘘つきか狂人ということになります。初代の弟子たちがそのような根も葉もないでっち上げ集団だったとしたら、彼らが歴史的事実として経験した大迫害の中でさっさと消滅していたはずです。嘘のために命をかけるなどということは、人には出来ないからです。ところが消滅するどころか、教会は迫害の中を生き抜き、今や地球を覆う勢いで広まっている。イエス様の復活が無かったとしたら、辻褄が合いません。そして神の助けがなければ、迫害の中を教会が生き続けるなど、不可能でした。

木曜日  大宣教命令
 なぜ、イエス様は弱々しく失敗の多い人間に、大切な宣教の働きを託されたのでしょうか。なぜ、天使ではなく、私たちなのか。少なくとも二つの理由があるように思います。一つは、聖霊のご支配を祈りつつ宣教の働きに加わる時、人が救われる喜びを救われた人と共に、そして天と共に共有することができます。そしてもう一つの理由は、私たちのような弱いただの人間を通してこそ、神の力が表されるときに「ああ、神様がなさった業だ!」と自身も周りの人々も認めることができ、神の御名が崇められることになります。「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。…なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」(Ⅱコリ12:9)。