第2課 安河内アキラ

2016年 第2期 マタイによる福音書

第2課 公生涯の始まり

今週の聖句  マタイ5~7章、ローマ7:7、創世記15:6、ミカ6:6~8、ルカ6:36、マタイ13:44~52、ローマ8:5~10

今週の研究  私たちは、生きることのはっきりした理由を、聖書、福音書、イエスの物語、イエスが私たちのために成し遂げられたことの中に見いだすことができます。イエスの先在性、誕生、生、死、天での働き、再臨といったことの中に、私たちは人生の最も差し迫った問題に対する答えを見いだせます。私たちは今週、この地上におけるキリストの人生と働き―私たちの人生と働きに唯一完全な意味を与えることのできるもの―の始まりに目を向けます。

火曜日:イエスは荒れ野の誘惑で、アダムが体験したのと同じ体験を経なければなりませんでした。誘惑に対する勝利という、アダム以降の人間がだれも手に入れられずにきたものを彼は必要となさいました。誘惑に勝つことによって、「キリストは……アダムの失敗をあがなわれるのであった」(『希望への光』720ページ、『各時代の希望』上巻124ページ)。ただし、イエスが誘惑に遭われたのは、アダムとはまったく異なる状況のもとでした。
 イエスはこの勝利によって、私たちが罪に対して言い訳ができないこと、罪を正当化できないこと、誘惑を受けたときに負けるのではなく、信仰と服従によって勝利できることを示しておられます。「悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます」(ヤコ4:7、8)と言われてきたとおりです。

木曜日:「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタ4:17)。ヨハネと同じように、イエスは悔い改めへの呼びかけで御自分の働きを始められました。イエスはヨハネと同様、人間性の堕落した状態と、すべての人が悔い改めて、神を知る必要があることをご存じでした。それゆえ、少なくともマタイによる福音書に記録されているように、彼の最初の宣言が悔い改めへの呼びかけであったことは、驚くには当たりません。

金曜日:新約聖書の至る所で旧約聖書が引用されています。新約聖書の中の出来事は、イエス御自身や聖書記者たちによって、繰り返し旧約聖書に言及することで説明されています。イエスはさまざまな形で、「聖書の言葉は成就されねばならない」と何度言われたことでしょう。
 旧約聖書に書かれていることを何度も振り返られたイエス御自身から(ヨハ5:39、13:18、ルカ24:27、マタ22:29)、いつも旧約聖書を引用していたパウロや(ローマ4:3、11:8、ガラ4:27)、旧約聖書に対するさりげない言及がおよそ550箇所もある黙示録に至るまで、新約聖書は自身を絶えず旧約聖書と結びつけています。旧約聖書と新約聖書は、人類に対して神が記された救済計画の啓示です。確かに、旧約聖書の一部分、例えば犠牲制度などは、もはやクリスチャンを拘束していませんが、私たちは旧約聖書を新約聖書よりも低く位置づけるような間違いを決して犯してはいけません。聖書は二つの契約の書から成っており、私たちは両方から神と救済計画に関する重要な真理を学びます。

 イエスさまが公の生涯での第一声は、どのような教えでしょう?と聞かれたらみなさまは何とお答えになりますか?「山上の説教かなぁ」と思われる方も多いのではないでしょうか。たしかにマタイによる福音書で、最初にまとまった説教の記録が残されているのは、マタイ5章からの山上の説教です。けれども木曜日の引用文にあるように、その前の4章17節で「悔い改めよ、天国が近づいた」というのが最初のメッセージだとわかります。そしてそれは道を備えると言われたバプテスマのヨハネのメッセージとも同様です。
 これは、わたしたちができること、しなければならないことを教えています。信仰生活は神さまがなさることとわたしたちがすることは異なります。天国がやって来る時を決めるのは神さまです。それはわたしたちの人生の終わりの時についても同様かもしれません。そのことをふまえて、わたしたちがやるべきことは悔い改めることなのです。罪を認めて、神さまに罪の赦しを求めて行く、これは他の誰かがあなたのかわりにはしてくれません。イエスさまは、すべての人がやらねばならないことをまず最初に訴えたのです。