第4課 安河内アキラ

2016年 第2期 マタイによる福音書

第4課 「起きて歩け」―信仰といやし

今週の聖句 マタイ8章、レビ記13:44~50、ダニエル7:7、8、ヨハネ10:10、マタイ9:1~8、Ⅰヨハネ1:9

今週の研究 救済計画は私たちのためにさまざまなことを成し遂げましたが、この世の病や死から私たちを免れさせることはありませんでした。このことを念頭に置きながら、肉体的、霊的いやしに関するいくつかの物語について考え、それらから信仰に関するどんな重要な教訓が引き出せるかを見てみましょう。

日曜日:イエスが病人に触れられたという事実は、その様子を見ていた群衆を身震いさせたに違いありません。確かに、別の(例えば、次に記録されているいやしの)機会になさったように、イエスが言葉を発するだけで、その病人はいやされたことでしょう。それなのに、なぜイエスは彼に触れられたのでしょうか。
 「ハンセン病人をその恐るべき病気からきよめられたキリストの働きは、魂を罪からきよめられるキリストの働きの実例である。イエスのみもとにきた男は、『全身ハンセン病』であった(ルカ5:12)。その致命的な病毒は彼の全身にひろがっていた。弟子たちは主が彼にさわられないようにしようとした。この病人にさわるとその人もけがれた者となるからであった。しかしイエスはハンセン病人に手をおいても、けがれを受けられなかった。イエスの手がふれたことによって、いのちを与える力がさずけられた。ハンセン病はきよめられた。罪という病もこれと同じである、―それは根強く、致命的で、人間の力できよめることはできない」(『希望への光』801ページ、『各時代の希望』上巻335ページ)。
 おそらくイエスは、重い皮膚病の人に触れることで、私たちの罪がどれほどひどかろうと、それからの清め、いやし、ゆるしを願う者たちに近づくことを示されたのでしょう。

水曜日:あるアドベンチストの牧師が、いやされないことに対する十分な信仰を持つことについて、しばしば説教をしていました。これは、私たちの肉体的状況よりもさらに深い所に目を向け、私たちの永遠の状況に焦点を合わせる至高の信仰です。私たちの祈りの願いは、しばしば肉体的な必要に関するものであり、神はこういったことも確かに気にかけられます。しかし、イエスは山上の説教において、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」(マタ6:33)とおっしゃいました。それゆえ最終的に、私たちの差し迫った肉体的な必要にもかかわらず、非常に多くのものがはかなく、つかの間であるこの世において永遠のものを念頭に置き続けることは、なんと重要でしょうか。

木曜日:マタイ9:9~13には、弟子への召命に関するもう一つの話、嫌われていた徴税人マタイの召しに関する話があります。イエスはその男の心をご存じでした。その心は、召しに対する彼の応答が示しているように、真理に対して明らかに開かれていました。イエスは、マタイのような人間を召すことでどんな反 応が生じるかを確実にご存じであり、聖句が明らかにしているように、そのとおりになりました。現代の私たちの視点からすると、マタイのような人間を召すことが当時の人々にとって、どれほど現状を動揺させるものであったかを理解するのは困難です。私たちがここに見るのは、福音の召しがいかに普遍的であるかということのさらなる一例です。

 イエス様がなさった奇跡は、手を触れてとか命じられていやされた例もありますが、いやすために何かを命じられる場合があります。たとえば貧しい盲人を癒された場面では、唾で土をこねてそれを塗ってシロアムの池で洗うように命じられました。(ヨハネ9:7参照) 10名の重い皮膚病を患った人たちにも、祭司に見せに行くように命じています。(ルカ17:12参照)
 なぜイエス様がこのような方法をあえて取られたのはわかりませんが、信仰には応答がともないます。忘れてはならないのは、癒しは神さまからの恵みです。何かをしたから与えられるのではなく、神さまがわたしたちの幸せのために、そして他にもいろいろな目的のために用いられる神さまの手段なのです。
 木曜日の学びでは、マタイの召命について学びます。マタイが、どれだけイエス様のことを聞いていたのかわかりませんが、イエス様からの招きに人生をかけたのです。彼は、安定した人生を捨ててイエス様に従いました。それは何があっても愛してくださる神さまを信じたからではないでしょうか。
 わたしたちは癒しを求めて祈りますがかなえられないこともあるでしょう。けれども、神さまはわたしたちの願いを以上の道を開いてくださることを信じること、これが信仰なのではないでしょうか。
 今週の暗唱聖句では、体のいやしだけでなく、魂のいやしについても教えています。人生において、償いができないような過ちを犯してしまうことがあるかもしれません。そして高齢者介護の働きをしながら、利用者の人生の最後に寄り添っていると、人生の終わりに過去の罪や痛みが迫って来て、それが魂の痛みとなり苦しまれる方がいらっしゃいます。神さまが重荷を背負ってくださり赦してくださる。ここにしか救いはありません。