第4課 長田和信

2016年 第2期 マタイによる福音書

第4課  「起きて歩け」――信仰といやし 

長田和信

はじめに
 神が私たちについて、もっとも気にかけておられることは、「霊的な病」や「永遠の死」です。
  
日曜日 触れがたい人々に触れる
 マタイ8:1~4。イエスのみもとに来た男は、「全身、重い皮膚病」でした。イエスはその男に、直に、その手を触れられました。その出来事は、偏見の中にあった当時の人々には、身震いするような光景でした。しかし、その男はたちどころに、いやされたのです。その事実は、重い皮膚病が象徴する「罪」をゆるし、きよめる力を、イエスが持つことを示していました。また、その罪がどんなにひどいものだとしても、それからの清め、いやし、ゆるしを願う者たちに、イエスが近づいて下さることを示しています。

月曜日 ロ-マ人とメシア
 マタイ8:5~13。当時、ロ-マ帝国は強大な力を持っていました。その権力の象徴であった百人隊長の1人が、イエスのもとにやって来ました。彼は、愛する「僕」の生命の危機を前にして、全く無力で、イエスに頼ることしかできませんでした。百人隊長はイエスの「言葉」には力があることを信じました。何故なら、彼も言葉一つで、百人の部下を動かすことが可能だったからです。イエスの言葉には、その御手と同様に「力」があります。

火曜日 悪霊と豚
 マタイ8:25~34。ガダラ人の地で、悪霊に取りつかれた二人の男がいました。悪霊たちは自分たちのことを、「レギオン」と呼んでいました。1レギオンは6000人の兵士のことで、この悪霊たちは2000頭の豚の中へ送り込まれ、豚の群れは海へとなだれを打って駆け下り、溺れ死んでしまいました。こうして、二人の男は、イエスによって解放されました。イエスには、私たちをサタンから解放する力があります。では、悪霊たちはどうなったでしょう?おそらく、今度は町の人々に取り付いて、イエスを町から追い出してしまいました。このお話は、イエスを選ぶことの大切さを教えてくれます。

水曜日 「起きて歩け」  
 マタイ9:1~8。中風の男の心の中にあった真の問題は、肉体的状態ではなく、「罪責感」でした。その男の心を読まれたイエスは、それゆえ、「あなたの罪はゆるされる」という最も慰めとなる言葉を口にされました。

木曜日 「死んでいる者たちに・・・死者を葬らせなさい」  
 マタイ8:18~22。イエスに従うとき、「何よりもまず、神の国と神の義を求める」(マタイ6:33)ことが要求されます。(金曜日の「さらなる研究」を参考にしてください)。
 マタイ9:9~13。取税人マタイの「召命」のお話です。聖書だけを見ると、マタイは唐突に召されたように見えます。しかし、E.G.ホワイトの「各時代の希望 上巻28章」を見ると、すでにマタイはイエスの教えを聞いていて、罪を悟らせる神のみたまが彼の罪深さを示していたので、マタイは心の中でキリストの助けを熱心に求めていました。しかし、ユダヤ人にとって裏切り者扱いの「取税人」であるマタイは、みずからを蔑んでいたために、イエスのもとに行くことを躊躇していたのです。そんなマタイに、イエスの方から近づいて来られたのです。驚くマタイに、イエスはこう言われました。「わたしに従ってきなさい」。マタイの喜びは、いかばかりであったことでしょう。・・・
 マタイは、その喜びを「祝宴」という形で表しました。そこには、多くの取税人や罪人たちが集まって来ました。(マタイ9:10)。取税人マタイの召しと彼の家でのイエスが共におられる食事会は、当時のユダヤ人社会では衝撃的なことでした。しかし、これが福音です。現代日本に生きる私たちにも、何か「偏見」がありはしないかと、わが身を振り返って反省させられます。

終わりに
「イエスはこれを聞いて言われた、『丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である』。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ9:12、13)
イエス様のこの言葉を噛みしめたいと思います。