第5課 安河内アキラ

2016年 第2期 マタイによる福音書

第5課 目に見える戦い、見えない戦い

今週の聖句 マタイ11:11、12、黙示録5:5、マタイ12:25~29、イザヤ27:1、マタイ11:1~12、ヘブライ2:14

今週の研究  確かに、キリストとサタンの大争闘は、私たちが毎日体験する見える世界の見えない背景を生み出しています。私たちは今週、マタイによる福音書(やほかの書巻)の聖句を調べてみます。こういった目に見えない勢力を明らかにし、それらが地上での私たちの生活や選択にどう影響しているかを示すためです。

月曜日:長年にわたって、聖書を学ぶ者たちはマタイ11:12と格闘してきました。なぜなら、ここで御国と人々を描写している言葉が、肯定的な意味でも否定的な意味でも使われうるからです。「ビアゾマイ」というギリシア語の動詞は、「力強く前進している」とも「暴力を受けている」とも意味が取れます。さらに「ビアステス」というギリシア語は、「力強い、熱心な人たち」とも「暴力的な人たち」とも取れます。
 それゆえ、この聖句は、柔和でおとなしい天の国が暴力を受けていて、暴力的な人たちがそれを攻撃しているという意味なのでしょうか。それとも、天の国は肯定的な意味で力強く前進しており、それを奪い取っている力強い人たちというのは、実のところ、キリストに従う者たちのことなのでしょうか。
 キリストに従う者たちは、御国の追及において、これほど攻撃的に、暴力的にさえ、なりうるのでしょうか。

木曜日:次の聖句は、大争闘の結果について教えています(ヘブ2:14、Ⅰコリ15:20~27、黙12:12、20:10)。天での戦いに負けたように、サタンは地上での戦いにも負けました。しかし、憎しみと復讐の念を持って、彼は食い尽くせる者たちを今もなお探し回っています(Ⅰペト5:8参照)。キリストの勝利がどれほど確定していようと、戦いは依然として激しく、私たちの唯一の防御策は、自分自身(心と体)を勝ち組の側に置くことです。私たちはそれを日々の選択によって行います。私たちは、勝利が保証された勝ち組の側に自分を置く選択をしているでしょうか。それとも、敗北が確実な負け組の側に自分を置く選択をしているでしょうか。この質問に対する答えに、私たちの永遠の運命はかかっています。

金曜日:イエスが、私たちを待ち受ける多くのわなに陥らないように「目を覚まして祈っていなさい」と言われたのも不思議ではありません。そしてあらゆるわなの中でも、クリスチャンにとっておそらく最も危険なのは、あなたが誘惑に負けるとき、「おまえはひどすぎる。おまえを腕の中に迎え入れてくれる恵みの神などいない」といううそを信じ込むわなでしょう。耳元でささやくこのような声をこれまでに聞いたことのない人がいるでしょうか。
 ある意味において、そのような感想は間違っていません。あなたが誘惑に陥るとき、たとえ一度だけでも、あなたは立ち直れないほど度を越してしまったからです。だからこそイエスはおいでになり、私たちがこれまで負けてきた場所で勝利を収め、その勝利を私たちに提供なさいます。福音とは、まさにこれです。
 大争闘の中で、私たちが自力でできないことをイエスがなさったのです。しかしその一方で、私たちは自分自身をイエスの側に置くような選択を、日々、刻々する必要があります。私たちがそうするのは、御言葉に従い、私たちが手にできるとイエスによって保証された勝利の約束を自分のものとして求めることによってです。終始、私たちの救いの保証として、彼の功績にのみ頼りながらです。

 今週はマタイ11勝11,12節について学びます。この聖句は難解な聖句であることは事実です。注解書などを見てもいろいろな解釈が書かれています。難しい聖句に出会った時には、前後の文脈を読んで解釈することも大切です。
 マタイ11章では、バプテスマのヨハネが牢に囚われ、そしてヨハネの弟子たちがイエス様のもとへやってきた場面から始まります。ここでバプテスマのヨハネから、これまでの時代が変わることを明確に語っています。これは旧約から新約に時代が移って行くことを教えています。
 そして12節で天の力を力づくで奪う者について、ここがわかりにくい部分ですね。今週の学びではこれは、善と悪との戦いとして教えられています。そしてこの時代に、悪の力がどのようなかたちで現れていたのでしょう。注解書を見ると三つの例を挙げていました。まずはイエスさまの働きに反対する既存の宗教勢力です。二番目は当時ユダヤ国内で反乱を起こしている政治勢力、三番目は自分の考えに従って、イエスさまの言葉に耳を傾けない人たちのことです。15節以降では、そのような人たちについてキリストがたとえています。このような者の背後にも悪の勢力が働いているのでしょう。わたしたちも同じようにならないよう気をつけねばなりませんね。
 またイエスさまの教えは、当時の方々からは新しい教えとなりました。そのような働きをどのように判断したらよいのでしょうか。19節には「知恵の正しさは、その働きによって証明される」とあります。すぐに答えが見つからない時に、その働きによって何が生まれるのか様子を見てから答えを出す、少し待つことも必要なのかもしれませんね。