第5課 聴覚しょうがい者用:武田 将弥

2016年 第2期 マタイによる福音書

第5課 目に見える戦(たたか)い、見えない戦い

1・『今週のテーマ』『マタイ11:11~12(日)』
 この世界には目に見えるものと、目に見えないものの、2つによって構成(こうせい)されています。たとえ見たり手で触(さわ)ったり出来なくても、私達は空気があることを知って(信じて)います。そして科学者や学校、テレビや雑誌などが「我々の目には見えないけれど、空中(くうちゅう)には携帯電話(けいたいでんわ)やテレビの電波(でんぱ)が飛んでいるんですよ」と教えてくれた事は、なんの疑問(ぎもん)も抱(いだ)かずに素直(すなお)に受け入れています。
 しかし教会や聖書、牧師やクリスチャンが「我々の目には見えないけれど、世界は神様によって創(つく)られて、神様は今も我々を救うために苦労なさっておられるんですよ」と、同じように教えたとしても「宗教ならお断(ことわ)りだよ、神様なんているわけ無いじゃない!」とか「俺(おれ)は自分の目で見えるものしか信じないぞ!」と言う人が多いのですが、これは本当に不思議な事です。
 皆が信頼している科学の力で、宇宙(うちゅう)、動植物(どうしょくぶつ)、人体のどれを調(しら)べてみても、すべて不思議なくらいに完璧(かんぺき)です。またどうやってこの世界が誕生(たんじょう)したのか分かりませんし、偶然(ぐうぜん)に生まれる可能性(かのうせい)はほぼゼロだと分かっています。どんなに科学が発達しても、何も無いところから物を作り出すことは出来ません。もはや目に見えない偉大(いだい)なる存在(そんざい)(意思(いし))がいると考えた方が早くて辻褄(つじつま)が合うはずなのですが、人間は「蟻(あり)」一匹(いっぴき)つくれないのに神様を信じようとはせずに威張(いば)ってしまうのです。ましてや神様を認めて働きに手を貸(か)そうとする者はもっと少ないのです。
 今週はその目に見えない神様が、私達を救うために戦ってくださっておられることを学んでいきたいと思います。

2・『闇(やみ)の前線(ぜんせん)(月)』『闘争(とうそう)世界観(せかいかん)(火)』
 マタイによる福音書11:12「彼が活動し始めたときから今に至(いた)るまで、天の国は力ずくで襲(おそ)われており、激(はげ)しく襲う者がそれを奪(うば)い取ろうとしている【新共同訳】」
 ここの聖句は昔からどういう読(よ)み方(かた)をしたら良いのか議論(ぎろん)されてきました。ギリシャ語の動詞(どうし)「ビアゾマイ」という言葉(ことば)には「カ強く前進(ぜんしん)する」「暴力(ぼうりょく)を受けている」という意味(いみ)があり、さらに「ビアステス」という言葉には「力強い熱心(ねっしん)な人達」「暴力的(ぼうりょくてき)な人達」という意味があるからです。どの読み方が一番正しいのかは置(お)いておいて、いずれにせよ分(わ)かっていることは「神様の勢力(せいりょく)と、そうではない悪の勢力があって、その間で戦いが繰(く)り広(ひろ)げられている」ということです。そして大事(だいじ)なのは、生きている我々人間が、自分で意識(いしき)する・しないに関(かか)わらず、どちらかの勢力に加担(かたん)していることになります。ですから自分の日々の生き方がとても重要(じゅうよう)になってくるのです。「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光(えいこう)を現(あらわ)すためにしなさい(Ⅰコリント10:31)」という聖句があるように、神様に協力した生き方を選択(せんたく)することが求められているのです。
 そして神様の求める生き方を選択することが重要な理由は明(あき)らかです。なぜなら聖書には神と悪魔の戦いの結末(けつまつ)がハッキリと記(しる)されているからです。すでに負けが決(き)まっている悪魔の側(がわ)に立つことは本当に無駄(むだ)で意味(いみ)のないことですが、それを知っていてもなかなかサタン(罪)を完全に切り離(はな)すことが出来ないのが、人間の悲しいところです。しかし人間は弱く、悪魔の前では無力(むりょく)な存在(そんざい)ですが、それでも神様の方に向かって祈り、助けを求めていくことが大事なのです。「神の恵み」とは自分の罪を認めて悔(く)い改(あらた)めて、与えられるものなのですから…

3・『闘(たたか)いが激(はげ)しくなるとき(水)』『勝目(かちめ)のない戦い(木)』
 我々人間を取り巻(ま)きながら続いているこの激しい大争闘(だいそうとう)は、残念ながらサタンと罪が滅(ほろ)ぼされるまで続きます。そしてこの大争闘はこれから益々(ますます)激(はげ)しくなりますし、逃(のが)れることの出来る人間もいません。
 過去(かこ)にサタンは神様やキリストに対して戦(たたか)いを挑(いど)んでいますが、失敗し続けています。しかしサタンはプライドの塊(かたまり)なので、負けたとしてもやる気(き)を無くしたり、諦(あきら)めたりせず、悔(くや)しがって益々(ますます)怒(いか)り狂(くる)って、その攻撃(こうげき)は激しくなります。分かりやすく言うと、要(よう)するに「意固地(いこじ)(かたくなに意地(いじ)を張(は)ること)」になっているのです。
 悪魔(あくま)は神様に直接(ちょくせつ)戦いを挑(いど)んでも勝てないので、腹(はら)いせに(恨(うら)みを晴(は)らすため)大切な「人間」を奪(うば)い取ることによって神様に仕返(しかえ)しをしているのです。そしてこれからも悪魔の嫌(いや)がらせは、神様と人間に対して続きます。
 たとえばバプテスマのヨハネは忠実(ちゅうじつ)な神の僕(しもべ)でしたが、獄(ごく)に入れられた後、精神的に苦しんだ後に、首を切られてしまいました。確(たし)かにこの不幸(ふこう)な出来事(できごと)は人間がやったことですが、その背後(はいご)で悪魔が動いていたことは言うまでもありません。ヨハネはイエス様と同じ時期(じき)に不思議な経緯(けいい)(事情(じじょう))で誕生し、ヨルダン川では神様の声を聞き、自分の全(すべ)てをメシアであるイエス様に対して捧(ささ)げ尽(つ)くしていた信仰者でしたが、だからこそ悪魔の激しい攻撃にあって信仰が揺(ゆ)さぶられました。これはヨハネだけの話ではなくて、主を信じる者には激しい試(こころ)みを受けるということが予表(よひょう)(前もって示す)されているのです。
 そこで注意が必要なのは、悪魔に攻撃されるのが嫌(いや)だからといって、神様を信じるのをやめるとか、中途半端(ちゅうとはんぱ)な信仰者になるのは避(さ)けてください。と言うのも、そうすると悪魔の攻撃は弱くなるかもしれませんが、これでは悪魔の思う壺(つぼ)です!悪魔の攻撃(こうげき)がストップしたとしても、天国に入れなかったら意味がありません。ですから自分の事が本当に大切だと思うのでしたら、自分の置(お)かれている状況がどんなに辛(つら)くても、神様を信じることだけはやめないでください。

4・『さらなる研究(金)』
 悪魔は自分がやがて滅(ほろ)びてしまうという結末(けつまつ)を知っているハズですが、意地(いじ)になっているので一人でも多くの人間を巻(ま)き添(ぞ)えにしようと企(たくら)んでいます。人間に出来ることは「誘惑(ゆうわく)を避(さ)けること」「神様に守ってもらうこと」しかありません。しかもこれは「祈り」をしないと出来ません。悪魔の死にものぐるいで襲(おそ)ってくる猛攻(もうこう)には、神様の力によってでしか耐(た)えることが出来ません。
 宇宙で最高の力と権力(けんりょく)を持ったお方が、驚くことに人間という小さな存在の味方になると言ってくださっているのですから、その言葉を信じて生きていきましょう。