第6課 安河内アキラ

2016年 第2期 マタイによる福音書

第6課 キリストにある安らぎ

今週の聖句 マタイ11:28~30、12:1、2、ルカ14:1~6、ヨハネ5:9~16、マタイ12:9~14、イザヤ58:7~13

今週の研究  私たちは今週、マタイによる福音書の研究を続けながら、安息日に関するいくつかの争いに目を向け、イエスの人生の中に、安息日を守るとはどういうことかの模範を見ます。もし律法が確かに神の御品性の反映であり、もしイエスがその律法を体現されたのなら、彼の第四条の守り方やそれに関する教えを学ぶことで、私たちは神の御品性についてさらに知り、もっと重要なことに、その御品性を私たちの生き方にどう反映できるかを学べます。

日曜日:私たちに安らぎを与えようと、イエスが言われるとき、彼はほかにどのようなことを意味しておられるのでしょうか。それは怠惰を意味するのでしょうか。自由気ままにすることを意味するのでしょうか。もちろん、そうではありません。イエスは私たちに対してとても高い標準を設けておられます。山上の説教の中に、私たちはそのことを見ました。しかしイエスとの関係は、私たちを疲れさせることを目的としていません。彼のことを知り、彼とその品性を見習うことによって、私たちは人生の苦労や困難の多くから安らぎを得ることができます。そして、これから学ぶように、そのような安らぎの一つのあらわれが、安息日を守ることの中に見いだされます。

水曜日:とても興味深いことに、四福音書を一読すると、聖書記者たちが頻繁にイエスと宗教指導者たちとの安息日論争を記録していることがわかります。もし安息日が廃止されようとしていたのなら、四福音書の記者がみな、安息日順守を巡るイエスと指導者たちとの争いに関する多くの話を記録しているわけがありません。この点は、四福音書がイエスの公生涯のあと何年も経ってから書かれたことを思い出すとき、一層はっきりします。正確な年代に関して意見は分かれているものの、ほとんどの学者が、少なくともイエスの死後20~30年経ってからのことだとしています。
 それゆえ、もし第七日安息日がそれまでに日曜日に置き換わっていたのなら(ごく一般的な主張)、その変更は、霊感を受けて書かれたイエスの生涯に関するいずれかの物語の中で示唆されていたのではありません。従って、第七日安息日が廃止されたり、変えられたり、取って代わられたのは、四福音書に記録されているように、少なくともイエスの何らかの模範や命令によってではないという有力な証拠を、私たちは持っています。それどころか、もし私たちがイエスの命令と模範に注目するなら、福音書は第七日安息日の継続的な妥当性を示しています。

木曜日:福音書の記録から明らかなように、イエスは安息日を廃止しませんでした。それどころか、彼は安息日を回復し、人々が負わせてきた厄やっかい介な重荷からそれを解放なさったのです。数百年後のクリスチャンたちも、依然として安息日に休み、礼拝をしていました。5世紀の歴史家ソクラテス・スコラスティコスは、次のように記しています。「世界中のほとんどすべての教会が、その聖なる秘儀(聖餐式)を毎週安息日に祝っていた。しかし、アレクサンドリアとローマのクリスチャンたちは、何らかの古代からの言い伝えのために、これを行うことを拒んでいる」(『教会史』第5巻289ページ、英文)。こういった争いが福音書に記録された理由が何であれ、それは安息日からだれの目をも逸らさせるためではありませんでした。

 今週は「安息日」について学びます。まず注目をしていただきたいのは、今週の暗唱聖句です。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」という有名な聖句です。きっとみなさまも暗唱をされている聖句でしょう。
 どうしても安息日の研究になると、第七日安息日の正統性や、いかに正しく守るかということに視点が行ってしまいます。けれども、大切なことは何のために安息日があるか、そこを忘れてはいけないと今週の暗唱聖句は語りかけているのではないでしょうか。

 今週の題は「キリストにある安らぎ」です。どのようにして安らぎを得るのでしょうか。あまり良いたとえではないかもしれませんが、親元に帰ると安堵しますよね。それは親が自分のすべてを受け入れてくれる存在だからではないでしょうか。
 安息日は、神さまとわたしの関係について目を向ける時なのです。自らの苦しみ、悩み、痛みなどを神さまにゆだねて、同時に神さまからの声に耳を傾ける、それによって安息を得ます。神さまが最善を備えてくださる、これを信じる時に、ほんとうの安息に出会う、その時が安息日なのです。その安息に入るためには、わたしのところへ来なさいと招かれています。あなたが安息を求めて行かねばなりません。
 このことを忘れてはいませんか?今週の学びは、そのようなことをわたしたちに問いかけています。そして多忙な現代に生きる人々にも、ほんとうの安息が必要なのかもしれません。