第6課 柳 鍾鉉

2016年 第2期 マタイによる福音書

第6課  キリストにある安らぎ

柳 鍾鉉

神の律法である十戒と安らぎとの関係を私たちの信仰生活のなかでどのように理解し適用すれば良いかをキリストが示された模範的な生涯を通して学ぶことは大変有意義なことである。

日曜日 キリストの軽いくびき
マタイ11:30に「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」というキリストの招きの言葉がある。キリストのくびきが 何を意味するのか?そして、その時代の人々や現代の私たちにとって「荷は軽い」とは、どのような意味があるのかを知ることが重要なポイントである。キリストの言葉はその当時の人々は自分では負いきれないほどの重たいくびきで苦しんでいたことを逆にあらわしている。それによりパリサイ派や律法学者たちが負わせた律法のくびきが人々の信仰生活をいかに苦しめ疲れさせるものであったかが分かる。そこには神を信じる喜びも平安もなく、彼らの心に安らぎは与えられなかった。それに対してキリストの軽いくびき(主の言葉)は彼らを重荷の苦しみや束縛から救うのに十分であった。

月曜日 休息の日を巡る騒動
イスラエル人の罪は創造主である神とその神の律法である十戒を捨てた事にある。それによって神はイスラエル人を異国のバビロンの手に引き渡され、70年間という恥辱的な捕囚の経験を許された。バビロン捕囚後、イスラエル人は神からの裁きを受けないために徹底的に神の律法を守ることを決心し、それが極端な立場を取ることになった。すなわち捕囚の原因を除くために安息日を守る事と偶像崇拝を捨てる事であった。ところが、神の律法を守ることの意図は良かったものの、神の御心とは離れた人間的な思いが加味され、安息日に容認できることとできないことについて多くの規則や規定が付け加えられ(ガイド41頁)、人々を一層苦しめる鎖と足かせとなり安息日が喜びのない日となってしまった。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」(マルコ2:27)。

火曜日 イエスの答え
地上におられた時のキリストは、安息日に人々が律法に縛られ苦しめられる日となっていることを喜ばなかった。それで本来の安息日の意味を明確にするために、キリストは安息日に多くの病人を癒すなど人々をその苦しみから解放する働きをされた。そして、キリストは日常的な仕事から離れ、神と交わり、神を礼拝することによって造り主である神を覚える日が安息日であることを人々に教えた。安息日は人の肉体と精神と魂に真の休みを与え、全人的な回復をなす日である。何よりも安息日は罪人をその罪から解放し、神しか与えることのできない心の安らぎと平安を人間の心に与える日である。

水曜日 安息日になされたいやし
今日の多くのプロテスタント教会ではイエスが十字架にかかられたことによって律法が廃止され、恵みの時代が到来したことを主張しながら、新しい礼拝日としてキリストの復活された日曜日を守っている。もし、彼らの主張が聖書的であれば礼拝日が土曜日(安息日)から日曜日(復活日)へ変えられたことが聖書に示されたはずである。ところが、聖書のどこにも礼拝日の変更に関する記事を見出すことが出来ないばかりか、安息日は天地が造られた時から旧約の時代やイエスの時代、使徒の時代を経て世の終わりまで変更のないものと書かれている。イエスが安息日に癒しの業をされたのは、まさに安息日は変わらない永遠の聖なる礼拝日であることの強力な裏付けであるに違いない。

木曜日 安息日を順守する
今までのキリスト教会の歴史を振り返って見ると、安息日を廃止しようとする数多くの反キリスト的な試みが行われて来た。ある時は安息日を断食日と定めることによって苦しい日や喜べない日とした。しかし、創造の時に神によって定められ、聖別された安息日は忠実な人々によって守られて来た。キリスト自身も毎週会堂に行かれ安息日を守り(ルカ4:16)、キリストの十字架や復活後も安息日は弟子達や使徒達によって守られ(使徒行伝13:42、44)、新しい天と地においても永遠に守られて行くのである(イザヤ書66:23)。わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない(マタイ 12:7)。世の終りの時代に生きている多くの信仰者に安息日は神に対する忠誠の試金石である。