第7課 安河内アキラ

2016年 第2期 マタイによる福音書

第7課 ユダヤ人と異邦人の主

今週の聖句 マタイ14:1~21、マタイ14:22~33、イザヤ29:13、マタイ15:1~20、マタイ15:21~28

今週の研究  キリストの地上での働きは、おもにイスラエルの民に向けられていました。しかし聖書全体が示しているように、イスラエルは、神が気にかけておられる唯一の民ではありませんでした。神がイスラエルを選ばれたのは、彼らを通して地上のすべての民を祝福するためでした。
 神が全世界に救いの手を差し伸べるのは、イスラエルを通して、より厳密にはイスラエルから起こるメシアを通してでした。私たちは今週、救いを必要とするすべての人に手を差し伸べる主について少し考えます。

日曜日:当時の弟子たちの立場にあなた自身を置いてみてください。明らかに神の人であったバプテスマのヨハネは、首を切り落とされたばかりでした。聖書には記されていないものの、この出来事は彼らを信じがたいほど落胆させたに違いありません。きっと彼らの信仰は試されたでしょう。しかし、イエスが次になさったことは、失望させられた彼らの信仰をとても励ましたに違いありません。
 しかし、給食がどんなに弟子たちの信仰を高めたにしても、この物語にはもっと深い意味があります。ユダヤ人への給食というイエスの行為は、神が荒れ野でイスラエルの人々に与えたマナをすべての人に思い出させました。「ユダヤ教の中に、メシアは過越祭のときにやって来て、彼の到来とともにマナが降り始めるだろうという言い伝えが生まれた。……だから、イエスが過越祭の直前に5000人を養われたとき、彼はメシアではないか、彼はさらに大きな奇跡を起こそうとしている―マナを復活させて、すべての人を常に養ってくれる―のではないかと群衆が思い始めたとしても、不思議ではなかった」(ジョン・ポーリーン『ヨハネ』139、140ページ、英文)。

木曜日:多くの人は、福音書の中に群衆への給食物語が二つあることに気づいていません。一つはユダヤ人への給食、もう一つは異邦人への給食です。いずれの場合にも、イエスは人々に「憐れみ」を抱いておられます。
 地球上のすべての人をイエスに引きつけることは、常に神の御計画でした。ヘブライ語聖書の中の驚くべき1節が、この真理を証明しています―「イスラエルの人々よ。わたしにとってお前たちはクシュの人々と変わりがないではないかと主は言われる。わたしはイスラエルをエジプトの地から/ペリシテ人をカフトルから/アラム人をキルから、導き上ったではないか」(アモ9:7)。
 神はここで何を言われているのでしょうか。神は、イスラエル人の事柄だけでなく、すべての人の事柄に興味を持っておられるということでしょうか。神はペリシテ人に関心を寄せておられるということでしょうか。注意深く読めば、旧約聖書の中にこの真理は繰り返し出てきます。しかし、何世紀もの間に曖昧になってしまったため、新約聖書の教会が形成された頃には、新しい信者の多くがこの基本的な聖書の真理を学ぶ必要がありました。

金曜日:神の道徳的基準に最も調和している必要のある私たちクリスチャンは、高潔な神の存在を突きつけられたとき、気まずくなる必要はありません。福音の約束があるからです。ユダヤ人であれ、異邦人であれ、自分の罪深さを突きつけられたとき、私たちは「律法の行いによるのではなく」(ローマ3:28)、信仰によって与えられるキリストの義の中に逃げ込むことができます。私たちが自分の罪を激しく自覚するとき、「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」(ローマ8:1)という約束を自分のものとして要求できます。ユダヤ人か、異邦人かは、重要ではありません。「年齢、地位、国籍、宗教上の特権などの区別なく、だれでもみな神のもとにきて生きるように招かれている」(『希望への光』880ページ、『各時代の希望』中巻164ページ)。

 今週の研究のみならず、聖書の中にはまったく逆のことを教えているようなことがあります。水曜日の学びの中にもありますが、イエス・キリストは「ユダヤ人のために働きに来た」と述べている場所もあれば「すべての人のために働かれる」と教えられている言葉もあります。これはホワイト夫人の書物にも同じことが言えます。
 なぜこのようなことがあるのでしょうか。それはその時の相手に向けて最善のことを語られているからです。イエス・キリストもホワイト夫人も同様です。教えようとしている相手にとって最も必要なことを語っています。先期の聖書研究ガイドでも、パウロの手紙は信仰による義を強調していますが、それは読者がユダヤ教の影響を強く受けている人たちなので、パウロは信仰による義の大切さを強く述べているのであって、彼も行いも大切なことも別の場所では教えていると書かれていました。これも同じことだと思います。だからこそ、その言葉がどのような背景で語られたかを考えずに、ひとつの言葉を読むと、曲解をしてしまう場合があります。聖書全体が教えていることを根底に、その言葉がどのような背景で語られたかを解釈することによって、みことばを正しく理解することができます。
 今週の学びの本論からはずれてしまいましたが、今週は神さまはすべての人が救われることが、旧約聖書にも書かれているようにみこころであることを教えています。