第7課 村沢秀和

2016年 第2期 マタイによる福音書

第7課  ユダヤ人と異邦人の主

村沢秀和

主は恵みをもってわたしたちを呼び、手を取り、諸国の光として立てられた。それは「見ることのできない目を開き、捕らわれ人をその枷から、闇に住む人をその牢獄から救い出すため」(イザヤ42:7)。

日曜日 空腹な者たちへの給食
バプテスマのヨハネが首を切られて殺されてしまう出来事は多くの人々を落胆させたであろう。しかし、そのあとでイエス・キリストが、2匹の魚と5つのパンから、大群衆に食事を分け与えるという信じがたい奇跡を起こされた。この出来事はかつて神が天からマナを降らせてイスラエルの民を養われた出来事を想起させた。この奇跡によって、多くの人々にイエスがメシアではないかと期待させた。しかし、イエスは人々の外的必要を満たすために来られたのではなかった。
月曜日 すべての被造物の主
5000人の給食の奇跡の後、イエスは群衆を解散させ、弟子たちにも「強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ」られる(マタイ14:22)。イエスに強いて舟に乗せられた弟子たちは、この後波に悩まされることになる。まるでそうなることをわかっていながら、イエスは無理やり弟子たちを舟に乗せたかのようだ。しかし、波に悩まされる弟子たちのもとに、イエスは水の上を歩いて弟子たちのもとに来られた。この出来事から学ばされるのは、波という試練にイエスは強いて私たちを直面させることがあるということ。しかし、イエスは必ず助けに来てくださるということ。しかし、イエスはなぜ水の上を歩いて弟子たちのもとに来られたのか。水の上を歩くというのは、自然の法則ではありえない。これはイエスご自身がすべてを造られ、支配しておられるのだという事実を示すためであろう。自然の法則は主が作られた法則であるがゆえに、それはいつでもイエスに従うのである。 
火曜日 偽善者の心
「主は言われた。「この民は、口でわたしに近づき唇でわたしを敬うが、心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしても、それは人間の戒めを覚え込んだからだ」(イザヤ29:13)。2つの問題が指摘されている。①宗教的態度と心の中が違う。現代に例えるなら、教会にも来るし、上手に賛美歌を歌い、流暢な祈りをささげても、心が神から遠く離れてしまっているということ。②人間が作り上げた戒めや伝統などに縛られているだけで、心から神を畏れ敬っていない。形骸化した信仰。
水曜日 食卓から落ちるパンくず
イエスは3度カナンの女の求めを拒絶された。一度目は「イエスは何もお答えにならなかった」(マタイ15:23)ことによって。二度目は「イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」(マタイ15:24)と言われたことによって。三度目には「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」(マタイ15:26)と女の求めを拒絶されたことによって。祈りがすぐに聞かれないと失望して、祈るのをあきらめてしまうことがあるかもしれない。しかし、主はわたしたちの信仰を試しておられる。カナンの女が「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」(マタイ15:27)と食い下がると、イエスは「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」(マタイ15:28)と言われた。この出来事からわかるのは、ひれ伏して、すがりつく祈りは必ず聞かれるということである。しかも、主は「あなたの信仰は立派だ」とほめてくださる。必死に涙を流して主の救いを祈り求めるとき、とても立派な信仰者の姿には思えないかもしれない。しかし、実は、これこそ主がわたしたちに求めておられる姿なのだ。
木曜日 異邦人の主
4福音書すべてに記載されている唯一の奇跡物語がこの給食の奇跡物語である。聖書には5000人に食べ物を与えられた物語と4000人に与えられた物語が出てきます。両者の共通点は少しのパンと魚から大量のパンと魚に増やされたということ。違う点は、残りを集めたかごの数が5000人のほうは12かごで、4000人のほうは7かごだったことや、奇跡を行われた場所が、5000人の給食の奇跡はガリラヤ地方西岸地区のユダヤ人の土地で起こった事であり、4000人の給食の奇跡は弟子たちを湖の「向こう岸」に行かせたことから、ガリラヤ湖東岸地区、ユダヤ人から見れば異邦人の土地で起こったことなど。このことから、イエスはユダヤ人にも、異邦人にも等しく食べ物を与えてあげられたということがわかる。異邦人であろうとも、イエスは憐みを示される方。