第8課 安河内アキラ

2016年 第2期 マタイによる福音書

第8課 ペトロと岩

今週の聖句 ガラテヤ4:4、ヘブライ7:26、マタイ16:13~20、エフェソ2:20、マタイ16:21~27、17:1~9

今週の研究  私たちは今週、イエスの物語をもう少し取り上げますが、ペトロと、「永遠の昔に」計画された死に向かう過程でのイエスの働きにペトロがどう応じたかに注目します。

月曜日:マタイ16:17~20を読んでください。「この岩の上に」という言葉は、キリスト教会において議論の的になってきました。カトリック教徒は、「この岩」がペトロ自身を意味していると解釈し、彼が初代の教皇であったと主張します。しかしプロテスタント教徒は、正当な理由によってその解釈を受け入れません。
 聖書の有力な証拠は、この岩はキリスト御自身であってペトロではないという考えを明らかに支持しています。
 第一に、ペトロはいくつかの箇所で岩の比喩を用いて、自分自身ではなくイエスに言及しています(使徒4:8~12、Ⅰペトロ2:4~8参照)。
 第二に、聖書の至る所で神やイエスが岩にたとえられており、その一方で、人間は弱く、信用できないものと見なされています。「主はわたしたちをどのように造るべきか知っておられた。わたしたちが塵ちりにすぎないことを御心に留めておられる」(詩編103:14)、「君侯に依り頼んではならない。人間には救う力はない」(同146:3)。またヨハネは、「人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」(ヨハネ2:25)とも書いています。そしてイエスは、何がペトロの心の中にあるのかも知っておられました(マタイ26:34)

火曜日:マタイ16:21~23を読んでください。ペトロの問題は、彼がイエスを守ろうとしたことではありませんでした。彼はイエスを操縦しようとしていました。彼はもはやイエスに従っておらず、自分に従えと、イエスに言っていました。
 イエスは、「サタン、引き下がれ」(マタイ16:23)と言われました。なぜなら、荒れ野におけるサタンのように、ペトロがキリストの使命を脅かす存在になっていたからです。
 シモン・ペトロはその歩みにおいて成長していましたが、イエス御自身も含めて、物事をいまだに支配しようとしていました。その意味においてペトロは、イエスを操って、自分が思い描くメシア像のための計画を実行しようとしたもう1人の弟子ユダと、さほど違いませんでした。しかしユダと違って、ペトロは深く反省し、自ら進んで懲らしめを受け、赦されようとしました。

木曜日:私たちは、ペトロに対するイエスの慈悲深い対応から多くを学ぶことができます。イエスは彼に恥をかかせるのではなく、彼の間違いを穏やかに説明なさいました。そのうえ、ペトロが取った態度に、とても独創的な方法で合わせました。単に税金を払う―それによって、御自分の義務を認める―のではなく、イエスはほかの場所(魚の口の中)から税金を手に入れられたのでした。
 この奇跡はいつもの奇跡とは違います。一見したところ、イエスが御自身の利益のためになさったと思われる唯一のケースだからです。しかし、銀貨を手に入れることはこの奇跡の目的ではありません。そうではなく、この奇跡は、イエスが神殿に対してのみならず、すべての被造物に対して権力を持っておられることの実物説明でした。私たちは人間的な観点から見て、イエスがどのようにこの奇跡を起こすことができたと理解したらよいのでしょうか。釣り糸を垂れ、最初の魚を釣り、神殿税として払うべきぴったりの額の銀貨を見つけたとき、どのようなことがペトロの頭をよぎったか、あなたは想像できますか(イザヤ40:13~17)。

 キリストの復活、そして昇天などの聖書に書かれている記録を見ると、輝かしい部分の中に陰となるできごとも書かれています。すばらしいできごとに目が行きがちですが、この陰の部分も事実だったのです。それはどんなことでしょうか? 「そしてイエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた」(マタイ28:16)。ここは、マタイによる福音書の最後の部分です。昇天の場面ではありませんが、キリストが二週続けて日曜日の夜に弟子たちに会った後に、ガリラヤへ行くように命じられて、そこでイエスさまが語られた、その記録でマタイによる福音書は終わっています。復活の主に二回お目にかかった後でしたが、まだ疑っている者もいたようです。
 もう一ヶ所、「さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた(使徒1:6)。この場面は、イエスさまが昇天されて天へお帰りになる直前に弟子たちを集めました。彼らは、ここでもまだイエスさまは地上の王国をお作りになると考えていたようで、ローマからの独立宣言をするのかとでも言いたげな質問をしています。
 けれども、神さまのみこころは、ユダヤという一地方で何か政治の変革を起こすような小さなものではありませんでした。全世界へ福音を伝えていく、それだけ大きな計画だったのです。その幻を、まだ小さな群れだった彼らが抱くことは難しかったかもしれません。それから2000年が過ぎて、この言葉が完全に成就してはいませんが、全世界に教会が建てられているのです。
 キリストから一時は「サタン」と呼ばれたペトロが赦されて、ユダヤでのことしか考えていなかった彼らが全世界へ出て行き今日の教会があるのです。神さまの御心は、一人でも多くの人が救われて、幸せになること、そのためにわたしたちも救われたのです。