第8課 張田佐喜夫

2016年 第2期 マタイによる福音書

第8課 ペトロと岩

張田佐喜夫

はじめに
 マタイによる福音書の頂点と言うべき大切な所を、今週、学びます。「十字架への道と教会の建設」の中で、イエスはペトロに信仰告白させ、今も私たちに『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。』と問われます。
日曜日 「あなたはメシア」
 ペトロは、イエスの最初の弟子として、生活を共に過ごしました。イエスは人としての生をとって、この世で過ごされました。イエスの言葉には権威があり、その御業は驚きの連続だった事でしょう。ペトロは「私の師は、今まで伝えられて来た預言者とは違う」と感じていました。突然のイエスの問いかけは、ペトロの魂に触れるもので、その時々に、嘘偽りない心の叫びとして、ペトロは「あなたはメシアです」と答えたのです。
 私たちは聖書から、聞いて信じる信仰を受け、イエスをメシアだと信じています。私たちも、ペトロのように魂に触れるキリストとの交わりの体験の中で、イエスをメシアと呼びたいものです。
月曜日 「この岩の上に」
 ペトロにイエスは「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言われましたが、「この岩の上に」との言葉の意味は教会で議論されて来ました。ペトロは教会のいしずえとなる岩ではなく、岩は神様ご自身です。ペトロはイエスが誰であるか(イエス・キリストの中に生ける神の子を見た)最初に発見し告白した人です。また、キリストによる信徒の交わり(教会形成)の最初の中心の人であり、そういう意味での礎石(そせき)と理解することができます。
 「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と言うイエスからの問いかけは、ペトロだけではなく、私たちにもその人生の中で問いかけられています。ペトロは一番に「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。私たちにとってキリストは本当の救い主なのか、全能の神様が生きておられるのか、それともただの歴史上の人物なのか。そうです、私たちにとってイエスは、わたしの罪と死に勝利した神・メシアなのです。
火曜日 サタンとしてのペトロ
 十字架ぬきの救いを考えているペトロにイエスは「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」(16:23)と言われました。この時のペトロのように、往々にして人の善意は神の敵になることがあります。それでは、神に従う道はどこにあるのでしょうか。イエスは「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われました。イエスに従うのに資格は必要ありません。信じるとは、このお方に身も心もついていく事です。
水曜日 天からの励まし
 イエスの姿が輝き変わった出来事は、全人類の救いのために必要であった十字架の死を前にして、イエスの為に送られた天からの慰めと励ましでした。かつて主のために働き、苦しみと失望を味わったモーセとエリヤの姿がそこにありました。イエスがエルサレムで成し遂げることを話していたのです。
 人は誰でも、人の救いのために関わり主のために試練に遭う時、きっと天からの声が与えられます。また私たちが跪けば、イエスの方から近づいてくださるのです。イエスは「起きなさい。恐れることはない。」と励まして下さいます。
木曜日 イエスと神殿税
 当時、神殿税(半シケル)を、20歳以上の全てのユダヤ人が納めなければなりませんでした。イエスは、「すべての被造物に対して権力を持っておられ」(p58)ます。しかし、イエスはひとりのユダヤ人として、ユダヤ教の諸条件の制約の中で生活され、律法、安息日、神殿、納入金等を無視されませんでした。
 イエス・キリストの十字架により、クリスチャンは罪から解放され、神の子とされました。国籍が天国にある人は、この世の秩序からは自由になりました。ただ、私たちもイエスのように不必要な争いを避ける時、キリストにある自由のゆえに隣人を生かします。また私たちの神の子としての自由が侵されない限り、この世の秩序と法に従い「地の塩、世の光」として、私たちもイエスと同じように歩みます。その時、神様は必要なものを不思議と備えて下さいます。