第8課 聴覚しょうがい者用:磯部豊喜

2016年 第2期 マタイによる福音書

第8課 ペトロと岩

はじめに
 今週の暗唱聖句のマタイ16章15節は、わたしどもにとってとてもたいせつな質問です。「イエスが言われた。『それでは、あなたがたはわたしを何者(なにもの)だと言うのか』」(新共同訳)。「そこでイエスは彼らに言われた、『それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか』」(口語訳)。イエス様を私がどのように受け止めるか、これは信仰においてもっとも大切な部分です。この質問の前に、イエス様は弟子たちに「人々は、人の子(イエスご自身)のことを何者だと言っているか」(マタイ16:13)と問いかけています。その時の答えはいろいろあって「洗礼者ヨハネ」だとか、「預言者エリヤ」だという人、「預言者エレミヤ」だという人、また単に「預言者のひとり」だという人がある、と弟子たちは答えます。これを聞いたキリストは、今度はこの同じ質問を弟子たちに投げかけられました。ここを見て思います。イエス様が今日、わたしの目の前におられたら、きっと同じ質問をされるに違いない…と。「あなたにとって、わたし(イエス)は何者なのか」と。あなたはこの答えを持っていますか。

2.「あなたはメシア」 5月15日(日)
 人間と言うのは「あの人はこう言っている」「この人はこう考えている」人の言葉を語ることはできても、「ではあなたはどう考えているの?」と質問(しつもん)の矛先(ほこさき)が自分に向けられると「ギクッ」となります。弟子たちは、その瞬間(しゅんかん)、無口(むくち)になってしまったに違いありません。「わたしにとってイエス様っていったい何者(なにもの)なのだろう。とっても頼(たよ)りがいがあって、魅力的(みりょくてき)な方だからついているのだけれど…こんなこと考えてもみなかった」と多くの弟子たちの頭の中は、いろいろな思いがグルグルと回(まわ)っていたことでしょう。牧師も時々、こんな質問をしたくなるときがあります。「今日の説教、どうだったかな?」「Aさんにぴったりの説教だったと思いますよ」「Bさんには心に響(ひび)いたのでは」。「ではあなたはどう感じたのですか?」…「いえ、わたしは~(何にも感じなかった、実は…眠(ねむ)っていたので)」こういう話の流れです。
 こういうとき、弟子たちの中に都合(つごう)の良い人がいました。すぐに手を上げて答えてくれる人です。その人の名は、ペトロ。彼は鋭(するど)い「直感(ちょっかん)(その場(ば)でピンと来る)」をもってこう答えます。「あなたはメシア、生ける神の子です!」と言いました。「メシア」とは何でしょうか、それは「油(あぶら)注(そそ)がれた者」、つまり神様が特別にお選(えら)びになられた「救世主(きゅうせいしゅ)」を指(さ)している言葉でした。

3.「この岩の上に」  5月16日(月)
 このペトロの言葉をイエス様はどのように評価(ひょうか)(良いかどうかを決めること)なさったでしょうか。その時のイエス様の言葉が聖書に残されています。「すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸(さいわ)いだ。あなたにこのことを現(あらわ)したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府(よみ)の力もこれに対抗(たいこう)できない。わたしはあなたに天の国の鍵(かぎ)を授(さず)ける。あなたが地上でつなぐことは、天上(てんじょう)でもつながれる。あなたが地上で解(と)くことは、天上でも解かれる。」(マタイ16:17~19)
 ペトロの答えを聞き、イエス様はにっこりと微笑(ほほえ)んで「満点(合格点)」を与えました。「あなたは幸(さいわ)いだ」と言ってお喜びになられました。ところでこの続きの言葉は、しばしば話(はな)し合(あ)いの的(まと)になる内容(ないよう)です。とくに「この岩の上に」という言葉です。カトリック教会では、「この岩」がペトロを意味しているとし、彼こそが最初の教皇(法王とも呼ばれている)だというのです。しかしプロテスタント教会はこれを認めません。「この岩」をイエス様として理解するからです。聖書全体からは「岩」はイエス・キリストを指しています(使徒4:8~12、一ペト2:4~8)。エレン・ホワイトも「力の岩なるキリストの上に建てられているので」(希望への光886ページ)と書いています。

4.サタンとしてのペトロ 5月17日(火)
 すてきな告白(こくはく)をしたペトロでしたが、そのペトロが「岩」ではない証拠(しょうこ)の一つがそのすぐあとに登場(とうじょう)します。それはマタイ16:21~23です。イエス様はご自分がメシアであることを表明(ひょうめい)した後に、「メシアは苦しみを受けて殺されることを語り」はじめます。ここでペトロは、イエス様にはこうあって欲しいという願いを込めて、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と語りました。
 ところが主はこのペトロの言葉に対して「サタン、引き下がれ!」という言葉で叱ります。これはペテロがサタンになったということではありません。サタンのようにイエス様の使命を彼が脅(おびや)かしたので、このように主は語られたのです。

5.天からの励(はげ)まし 5月18日(水)、イエスと神殿税(しんでんぜい) 5月19日(木)
 続くマタイ17:1~13は、イエス様は3人の弟子たち(ペトロ、ヤコブ、ヨハネ)を連れて高い山に登ったときの話です。このときイエス様のお姿が変わりました。そこに旧約に登場(とうじょう)するエリヤ(生きたまま天に昇(のぼ)られた人)とモーセ(一度は死んだが、復活した人)がイエス様の前に姿をあらわしました。この二人の目的は「彼らがイエスの苦難(くなん)の場面(ばめん)について語(かた)り、天の同情の確証(かくしょう)を持ってイエスを慰めるため」(希望への光p892)でした。ここで注目することは、人類を救うためには、どうしてもイエス様の死が必要であったということです。いつも人々を励ましたキリストが、ここではモーセとエリヤの励ましを受けているというのはたいへん興味深いことです。
 さらに神殿税の話が出てきます。当時、すべてのユダヤ人は神殿税を払う決(き)まりがありましたが、宗教教師にはそれがありませんでした。イエス様は、最高の宗教教師であったゆえ、神殿税をはらう必要がありませんでした、しかし弟子たちのために貨幣を口に加えた魚を釣ることによって、神殿税を払う芸当(げいとう)を見せました。こうしてこの話より、イエス様が単なる普通の人でないことを示しています。これもすべて最初の質問、「わたしは何者か?」の答えであると思われます。