第9課 安河内アキラ

2016年 第2期 マタイによる福音書

第9課 魂の偶像(とそのほかのイエスの教え)

今週の聖句 コヘレト9:10、マタイ18:1~4、マタイ18:21~35、マタイ19:16~30、ガラテヤ3:21、22、マタイ19:27

今週の研究  私たちの心の中における神の働きは、何よりも、神の国の価値、倫理、基準を私たちに指し示すことです。今週、見て行くように、それらの価値、倫理、基準は、私たちが生まれついたもの、私たちを育んだものとは、しばしば大きく異なります。弟子たちはこのような教訓を学ばなければなりませんでした。私たちも学ぶ必要があります。

日曜日:子どものように謙遜であるとは、どういう意味でしょうか。謙遜さを示すものの一つは従順さ、つまり神の御言葉を私たちの意志より優先することです。もしあなたが人生において誤った道を進んでいるとしたら、それは、あなたがあなた自身の道を歩んでいるからです。その解決方法は単純です。謙遜になって、御言葉に服従することで神の道に立ち帰ることです。もしアダムとエバが謙遜であり続けていたなら、彼らは罪を犯さなかったでしょう。命の木と善悪の知識の木がいずれも園の中央にあったということを考えるのは、興味深いことです。しばしば、命と破滅は遠く離れていません。その違いは謙遜さです。

月曜日:マタイ18:21~35を読み直してください。「七の七十倍までも赦しなさい」とイエスが言われたとき、彼が本当に言おうとしておられたのは、だれかを赦すことをやめてはならない、ということです。イエスは、他者のためだけでなく、私たち自身のためにも、赦しの必要性を真剣に考えておられます。このことを伝えるために彼が語ったたとえ話は、なんと説得力があることでしょう。私たちは多くのことを赦していただけます。それこそがまさに福音であり、赦しです(出32:32、使徒5:31、コロ1:14参照)。しかしもし私たちが、神によって自分が赦されたように他者を赦さないなら、私たちは恐ろしい報いを受けることになります。

木曜日:ここには、私たちが自分自身について考えるのに必要な興味深い対比が示されています。昨日の研究で触れたように、私たちはイエスに従うならすばらしいもの―「永遠の命」(マタ19:29)さえも―約束されています。しかしその一方、この世でイエスに従うことには犠牲―ときとして非常に大きな犠牲―が伴うことを聖書は明らかにしています。後日、イエスは、ペトロが殉教の死を遂げるであろうと告げました(ヨハ21:18、19参照)。歴史を通じて多くの信者が、今日でさえ、イエスに従うことのために高い代償を払ってきました。実のところ、もし私たちが主に従うことに対して高価な代償を払ってこなかったとしたら、「私の歩みはどこかおかしいのではないか」と、自問したほうが賢明かもしれません。しかし、その代償がどれほどのものであったとしても、まったく損はないでしょう。

 聖書はくりかえしてわたしたちに謙虚であるように教えています。日曜日の引用文でも、「アダムとエバが謙虚であれば罪を犯さなかった」と書かれています。では謙虚で無い時は、どのような時でしょうか。今週、わたしの中で個人的にとても悲しく、怒りたくなることがありました。けれども、いろいろ考えているうちに、自らの醜さや弱さに気づかされ・・・こうやって怒っているわたしは何者なんだろうか? そのことに気づくと怒りは消えて行きました。謙虚ではないということは、自らの本来の姿を見失っている時なのかもしれません。
 木曜日の学びでは、12弟子のヤコブとヨハネが母が、息子たちが王国においてイエスの右と左に座れるでしょうかとたずねています。(マタイ20:20~28参照) この願いをしている母の想いは、自分勝手かもしれませんが子を思う親の切実なものだと思います。キリストは、わたしの杯を飲むことになるとおっしゃいました。そしてヤコブは最初の殉教者となって行きます。わたしたちは将来のことをわからないにもかかわらず、一生懸命からにしても「絶対に大丈夫」などと約束をしてしまうこともあるでしょう。これも神さまの前で謙虚な姿ではありません。わたしたちは先のことはわからないのですから。
 このような失敗をくりかえしながら、自らの弱さを悟って謙虚になり、最善の道を備えてくださる神さまの愛におゆだねすることができるようになるのではないでしょうか。