第11課 和田耕次

2016年 第3期 地域社会における教会の役割

第11課 イエスは「わたしに従いなさい」と命じられた

はじめに
自分を生かす主イエスの命の力は他者を生かす命の力です。主イエスと繋がっていることを言い換えれば「わたしに従いなさい」と言う言葉になります。私たちの愛の業を生み出すことをして下さったのもそれを喜んで受けて下さるのも主イエスです。すべてはこの一点にかかっています。私たちの愛の業は常に主イエスによってのみ可能にされ、主イエスがそれを受け止めて下さっているのです。
日曜日  羊はその声を知っている
羊たちは、まことの羊飼いの声を聴き分け、聴き続ける戦いをしなければなりません。私達は自分で自分の羊飼いになってしまい、自分で自分の声に聞き従ってしまってはいないでしょうか。私達は自分の声ではなく、私達一人一人の名を呼んで下さる、まことの羊飼いイエスの声に聞き従う練習を毎日の生活でしたいと思います。
月曜日  私たちは捜さなければならない
マタイ18章は、「小さい者」について主イエスがどのように深い思いを寄せておられるのかを示しています。教会の罪は、「小さい者」にどのような配慮をするかによって明らかになります。「小さい者」とは私たちが評価の対象にしていない人間を指します。この小ささがどうして、その人に生まれたのでしょうか。相手を小さくしてしまうというのは、こちらが大きくなるからではないでしょうか。
マタイ18:6「わたしを信ずるこれらの小さい者」とありますが、これは弟子たちのことであり、また私達のことです。「その中の一匹が迷い出た」これは、その一匹の過ちによることを示します。
小さい者」は、放っておけばマタイ18:14「小さい者のひとりが滅びる」結果になるのです。
私たちは皆等しく小さい者ではありませんか。私たちは十字架の贖いがなければ生きられない小ささを持った者です。しかし、その「最も小さな」自分は主イエスの愛の内に置かれている自分です。私もあなたもこの小さな者、しかし私もあなたも主の愛の中に赦しの中にいるのです。私たちに対する神の行為は私たちを通して隣人に及びます。それは「最も小さい者」から「最も小さい者」へ、なのです。
火曜日 懸け橋
ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」「泊まることにしているから」(ギ語:デイ・メ・メイナイ)これは、「泊まらねばならない」という強い断定的な表現です。ザアカイの救いの為にそうせねばならない、それは神の定めだ、というのです。ザアカイはまだ充分な信仰の理解に至ってなかったかもしれないが、自分の不確かさにもかかわらず、主の言葉に従い、委ねていくという決断をしたのでした。主イエスとの出会いは、人間の生き方を変える力を持ちます。人々はつぶやき、「彼は罪人の家にはいって、客となった」と言いました。人々は迂闊なことに自分達もその罪人の一人なのだという認識に欠けていました。人々は主イエスをお客として迎えなければ救われないということに気づいていないことを私達も他人事としないようにしましょう。
失われたもの」とは「見失った」「行方不明になる」と訳されている言葉と同じ言葉です。本来あるべき所から逸脱して誤った場所にあるとき、それは失われていると言うのです。何から失われていたのか、神から失われていた、隣人から失われていた、自分で自分を見失っていたのです。主イエスが捜しに来られ名前を呼び、捜し出し、取り戻されました。つぶやいた人々はザアカイと主イエスの懸け橋になれませんでしたが、ザアカイはこのあと人々と主イエスの懸け橋になりました。
水曜日  命じること
パウロはキリストを徹底的に拒否し、反逆し続けた末についにキリストの圧倒的な力の前に屈服し、キリストに従う者になりました。自分は神の敵であったということを受け入れた者のみが従う者に変えられるのです。パウロは神の救済計画の中から迷い出た者でありましたが、ダマスコで主イエスが捜し出し連れ戻された者です。失われた者であったパウロは主と共に魂を捜し出す人になりました。Ⅰコリント15:9「実際わたしは、神の教会を迫害したのであるから使徒たちの中でいちばん小さい者であって、使徒と呼ばれる値うちのない者である」パウロの伝道も小さい者から小さい者へです。
木曜日  「探しなさい。そうすれば、見つかる」
求めよ」、「探せ」、「門をたたけ」これは、人間の側の気が向くか気が向かないかに関係なく、神に立ち帰れ、といっているのです。これは祈るということです。神は求める者に良いものの源泉である聖霊を与えてくださいます。祈ることは最善をしてくださる神に委ね切るということです。