第13課 聴覚しょうがい者用:島田隼人

2016年 第3期  地域社会における教会の役割

第13課 私たちはどのように待てばよいのか

1.今週のテーマ
 今期は「地域社会における教会の役割」について学んできました。地の塩、世の光としての教会の使命(しめい)を再確認(さいかくにん)し、一人一人が永遠の福音を「生きる」ことの大切さを学びました。私たちはイエス・キリストの再臨を待ち望む「アドベンチスト」です。今週私たちは、どのようにキリストの再臨を待てばよいのかについて学びます。この問(と)いを学ぶことによって、
クリスチャンとしての生き方、そして教会の役割が明確(めいかく)になってくるのかもしれません。
「待つこと」が好きな人はあまりいないのではないでしょうか。「後(あと)、何分(なんぷん)?」、「後、どれくらいで着く?」どこかへ向かう車の中でよく耳にする会話です。私たちアドベンチストも再臨という最高の瞬間(しゅんかん)を待ち続けています。待つ間に何をするか、またどのような生き方をするかで運命が決まるのです。イエスさまの教えから、「待つ生き方」について学びたいと思います。

2.イエスを待つ間(あいだ)に(日)
 マタイによる福音書24章においてイエスさまが神殿(しんでん)の崩壊(ほうかい)を予告(よこく)された時、弟子達は世の終わりの徴(しるし)を知りたがりました。それに対してイエスさまは偽預言者(にせよげんしゃ)、戦争、飢饉(ききん)や地震についての徴(しるし)を話されます。しかし、これらの徴はいつの時代にも見られる徴でもありました。イエスさまが世の終わりについて弟子達に一番伝えたかったのは「徴」ではなく、世の終わりを待つ者の「生(い)き方(かた)」だったのです。マタイによる福音書24章36節〜25章46節において、イエスさまは譬(たと)え話を通して待つ者の生き方を説(と)いておられます。再臨を待ち望む私たち一人一人にイエスさまが伝えたいこと。それは、待っている私たち(教会)がどのように隣人(地域)に接(せっ)して生きるかということです。神様から与えられた愛とタラント(資(し)源(げん))を用いて「この最も小さい者」に手を差(さ)し伸(の)べる生き方が求められているのです。

3.待つ間のリバイバルと改革(かいかく)(月)
 イエスさまは、「皆が悔(く)い改(あらた)める」ようにと願っておられます。待つ間に私たちは悔い改め、真に生き返る(リバイバル)必要があります。十字架上でキリストに信仰を告白した犯罪人の一人は、悔い改めとリバイバルを経験しました。十字架上のキリストと出会い、自己に死に、キリストによって生きる者へと新たにされたのです。この悔い改めとリバイバルは、十字架上のキリストを眺(なが)めることによって起こりました。同(どう)様(よう)に、私たちも十字架上のキリストを眺め続ける必要があるのです。
「キリストを眺めるということの意味は、み言葉の内(うち)にこのお方(かた)の生涯(しょうがい)を研究するということである。わたしたちは真理を隠された宝のように掘り下げるべきである。目をキリストに留(と)めなければならない。このお方を自分の個人的救い主とする時、そのことがわたしたちを恵みの御座(みざ)に大胆(だいたん)に行かせるのである。眺めることによってわたしたちは変えられ、品性において完全であられるお方に道徳的に同化(どうか)するようになる。」(SDABC.6.p1098)  BC…バイブルコメンタリー

4.待つ間の教会の使命(火)、待つ間に最後の収穫(しゅうかく)に備(そな)える(水)
「教会の存在(そんざい)意義(いぎ)は、神の言葉を伝える『メッセンジャー』たることにあるのです・・・
燃(も)えない火というものは存在しないように、宣教(せんきょう)しない教会、メッセージなしの教会というものはそもそも存在しないのです。」(山形謙二「主よ、み国を!」p14)
 待つ間の教会の使命は、「メッセンジャー」になることです。キリストと「共に」生きている全(すべ)ての人が「メッセンジャー」であり、その集まりが教会なのです。
キリストと共にいる教会。キリストの愛の掟(おきて)で溢(あふ)れている教会。これ程(ほど)大きなメッセージはないのではないでしょうか。
「そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿(しんでん)に参り、家ごとに集まってパンを裂(さ)き、喜びと真心(まごころ)をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆(みんしゅう)全体(ぜんたい)から好意(こうい)を寄(よ)せられた。こうして、主は救われる人々を日々(ひび)仲間に加え一つにされたのである。」
使徒言行録2章46−47節
キリストの愛で満たされている教会こそ、再臨を待つ間の教会の姿であり使命なのではないでしょうか。そして、愛で満たされている教会には、「主が」救われる人々を日々送られるのです。私たちの周(まわ)りには色づいて刈(か)り入れを待っている人々が大勢います。最後の収穫に備えができている教会をキリストは待ち望んでいるのです。

5.待つことは終わった(木)、さらなる研究(金)
 いつの日か「待つこと」は終わります。待ち望んだイエスさまと会える日が必ず訪(おとず)れるという希望を聖書は記(しる)しています。待つことは必ず終わるのです。「忠実な良い僕(しもべ)だ。よくやった!」と笑顔(えがお)のイエスさまに言っていただく瞬間(しゅんかん)を夢見(ゆめみ)ながら、ワクワクしつつ再臨を待ち望みたいと思います。
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。(マタイ28:20)」と言われたイエスさまの言葉を胸に、福音を語(かた)るだけではなく、福音を生きる者へと回復されるよう祈り求めたいと思います。そして何より、将来私たちに用意されている聖なる都エルサレムの雰囲気(ふんいき)を、神さまは地上の「教会」に求めておられるのではないでしょうか。
「もし私たちが神の前に身を低くし、親切で、礼儀正しく、心優(やさ)しく、憐(あわ)れみ深くなるなら、真理への回心(かいしん)が現在たった一人しかない所に、百人の回心が起こるだろう。」
(「教会への証」第九巻、189頁、英文)