第3課 安河内アキラ

2016年 第3期 地域社会における教会の役割

第3課 旧約聖書における正義と憐れみ(その1)

今週の聖句 出エジプト記22:21~23、23:2~9、アモス8:4~7、イザヤ1:13~17、58:3~14、使徒言行録20:35

今週の研究  神の教会は神の花嫁、神の「奥さん」です。もし私たちが本当に神のものであるなら、私たちは貧しい人や力なき人たちを熱心に気にかけ、支援することでしょう。

月曜日:また昨日触れたように、社会的正義に対する気遣いは、週ごとの安息日から、安息の年やヨベルの年にまで及んでいます。レビ記23章と25章に描かれている三つの安息の日または年の背後にある原則は、クリスチャンにも及びます。第七日安息日は永遠に天地創造を指し示すとともに、十字架と新しい地とを指し示すものです。この日は、私たちの情け深い創造主にして救い主と私たちとの関係を強め、神が深く愛しておられる者たち―切実な必要を抱える人たち、貧しかったり、苦しんだりしている人たち―に私たちを近づけます。
 しかし、安息の年やヨベルの年が永遠の原則を示しているからといって、そのことは、私たちが文字どおりに、今それらの行事を守らなければならないということを意味しているのではありません。その点は注意してください。堕落前の天地創造の際に制定された第七日安息日と違い、これらは「やがて来るものの影」(コロ2:17)である儀礼的安息(年)であって、イエスの働きと犠牲を指し示し、十字架における彼の死によって終了したものです。その代わりに、これらの儀礼的安息(年)は、他者の扱い方、とりわけ困窮している人たちの扱い方に関する原則を指し示しています。贖われた民として、イスラエルはこの世の光となり、神の憐れみを分け隔てなく人々に示す義務がありました。彼らは感謝することで、神を知らない人たちに神の御品性を示すことになっていました。

水曜日:ここでの重要な点に注目してください。「私のためにこれをしてください。あれをしてください」といったように、礼拝はしばしば自己中心になりうるということです。もちろん、私たち自身の個人的な必要を神に願い求めるのにふさわしい時と場所はあります。しかし、神がここでおっしゃっているのは、真の礼拝には「飢えた人」「貧しい人」「苦しめられている人」に手を差し伸べることが含まれるであろう、ということです。しかしすばらしいことに、人々に対するこのような働きは、支援を受ける人たちだけでなく、支援する人たちをも祝福します。
 困窮している人たちに手を差し伸べ、彼らを助ける人々にどのようなことが起きるかについて述べている聖句を読んでください。他者を助け、他者に与えることで、私たち自身が祝福されるということです。程度の差こそあれ、どこかの時点で、神からのこの約束が真実であることを体験したことのない人がいるでしょうか。自力で困難を切り抜けられない人たちを助ける人に、どんな喜び、満足、希望が与えられるかを見たことのない人がいるでしょうか。キリストの御品性をこの世に反映させる方法として、これ以上のものを想像することは困難です。

木曜日:真理を持っていることは、どんなにすばらしくても、それだけでは十分でありません。イザヤ58章において、神の民は宗教上の形式や習慣に熱心でしたが、信仰を実際的に適用することを苦手としていました。神は今日、神の御品性に関する真実を行動で示しなさい、という旧約聖書の預言者たちの呼びかけを繰り返しながら、善のための力になりなさい、と御自分の教会を召しておられます。

 昔も今も人々の貧富の差が社会問題となっています。その原因を考えてみると、社会の構造や置かれた環境で、貧しい状態から這い上がることができないような方も多くいます。聖書の中を見ると、貧しい人間が存在している現実を踏まえた上で、様々な教えが書かれています。
 申命記24章10~22節をお読みになってください。ここでは貧しい人と助けるために具体的な教えが書かれています。この制度で助けられたのは、貧困と配偶者の死という苦しみの中にいたルツでした。彼女の信仰や嫁としての生き方に、夫となるボアズが心を動かされたとしても、このような制度があったため落穂拾いをして彼女は生きる糧を得られました。また生活の基盤を整えるために、土地の所有は重要です。ヨベルの年の徳政令だけでなく、親族が身代わりになるなど、貧しい人たちの基盤を支える制度によって彼女は助けられたのです。
 貧しい人々を助ける制度が設けられた理由として「あなたは、エジプトの国で奴隷であったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じるのである。」(申命記24:22)と書かれています。これをわたしたちにあてはめると、「罪の奴隷から救われたのだから……」あなたがたも、わたしの代わりに愛の業をして欲しいと命じられているのではないでしょうか。救われた喜びから、助けの必要な方にできることをさせていただく、このような生き方を聖書は勧めているのです。