第3課 池増信男

2016年 第3期 地域社会における教会の役割

第3課 旧約聖書における正義と憐れみ(その1)

はじめに
 「基本的人権」という概念が唱えられるようになったのはいつ頃からでしょうか。日本では太平洋戦争後に公布された日本国憲法の制定の時からではないかと思います。しかしながら、いまだにその権利にあずかっていない人々がおられることは否定できない事実です。そのなかで、古代イスラエルで同じような制度が定められていたことに驚きを禁じえません。今週は旧約聖書でうたわれている基本的人権、つまり社会正義について学びます。

日曜日 正義と憐れみ―神の民の特徴
モーセを通して与えられた律法のなかに社会正義がうたわれていました。すなわち、安息日の戒めは男女の奴隷にも適用され、ヘブライ人の奴隷は7年目には解放されること、寡婦や孤児を苦しめることをせず、金を貸す時には利子をとらず、また上着を質に取る場合には日没には返すこと、そして訴訟においても貧しい者を裁く時には判決を曲げないよう等と定められています。さらには寄留者に対しても虐げる事のないように定められています。またヨベルの年が定められ、土地が元の所有者に返還され、借金も帳消しにされました。このような正義が定められた背景は、イスラエルの民がエジプトの地で奴隷として苦しんだという経験があったからです。

月曜日 普遍的な関心
 正義の思想は特に安息日、安息の年、そしてヨベルの年の定めの中に顕著に表れています。これらの定めは当時のユダヤ人のみならず、今日のクリスチャンも引き継いでいくべきものです。もちろん文字どおりに適用できないものもありますが、その原則を見失ってはなりません。すなわち、社会的に弱い立場に置かれている人々への愛に満ちたかかわりです。教会は社会的弱者に対して援助の手、交わりの手を差し出しているでしょうか。

火曜日 預言の声(その1)
預言者を通して語られた神の声は厳しいものですね。「お前たちの礼拝を受け入れない。なぜならば、日常生活が私の掟からかけ離れており、悪を行っているからだ。それゆえ悔い改めなさい。正しい裁きを行い、社会的弱者を顧み、守りなさい」。この声を私たちはどう受け止めたらよいのでしょうか。私たちも週毎に礼拝を捧げておりますが、日々の生活の場で、困窮している方々に少しでも寄り添った歩みがなされているのでしょうか。私たちの周囲には私たちが気付かないだけで、助けの手を求めている方々がきっとおられるはずです。

水曜日 預言の声(その2)
 イザヤ書58章は、真の礼拝・儀式は何であるかを私たちに問いかけています。それは、神殿に赴き、儀式・儀礼を行うことだけではなく、隣人を愛することをも含むものではないかと問うています。ここでルカ福音書におけるたとえ話の一つを思い起こします。宮に祈るために出かけた二人のお話です(ルカ18:9~14参照)。パリサイ人は自分の宗教行為を神に誇り、同時に徴税人を見下していたのです。彼には弱者を慈しむ思いがなかったので神に受け入れられませんでした。キリストは宗教儀礼とともに隣人への愛の行為の必要性を説かれたのです。今日の教会も神の言葉を受け入れて、信仰と行い(隣人への愛の奉仕)が両立する共同体になりたいものです。

木曜日 善のための力
 教会の使命が理解できたとしても、私たちの教会はその置かれている場で地域に対して一体何ができるのでしょうか。教会の限られた人材と資金に目を向けると無力感を覚えるものです。しかし教会には目には見えない霊的力が備えられています。小さな一歩から始めることではないでしょうか。行政の手が行き届かない隙間の部分で教会が地域の必要に応えることができる機会があると思うのです。教会が地域から孤立しないで、地域との接点をみいだすこと、接触を密にすることが必要です。ガイドの中で、とある都会の教会の働きが紹介されておりましたが、私たちの教会も、人が来るのを待っているのではなく、積極的に地域に出ていくことが求められています。教会は「世の光であり、かつ地の塩」であることを自覚したいと思います。