第5課 安河内アキラ

2016年 第3期 地域社会における教会の役割

第5課 イエスと地域支援

今週の聖句 エゼキエル37:1~14、エフェソ2:10、エゼキエル47:1~8、マタイ5:16、黙示録22:1、2、イザヤ61章

今週の聖句 ルカ4:16~19、10:25~37、マタイ5:13、イザヤ2:8、ヨハネ4:35~38、マタイ13:3~9

今週の研究  私たちはここまで、困窮している人たちを助けることについて、旧約聖書が何と言っているかを垣間見てきました。ここからは、新約聖書が言っていることに目を向けますが、イエスの言葉より始めるのにふさわしい箇所があるでしょうか。しかも、イエスの有名な教えの一つに、「あなたがたは世の光である」(マタ5:14)というものがあります。その際に、私たちはこの世の真の光(ヨハ8:12)であられるイエスを反射するのです。イエスが地上の働きの中で手本となられた教えは、私たちが彼を通していかに暗闇に光の穴を開けることができるかということについて、説得力のある指示を与えています。

月曜日:同胞は隣人として大切にし、それ以外の人はみな部外者として退けるというのが、キリストの時代の一般的な考えであったことを考慮すれば、この律法の専門家は、イエスにこの問題を明確にさせようとしていました。イエスが語られたたとえ話は、まったく異なる見方を示しています。私たちの隣人とは、私たちが出会う、困っているすべての人です。隣人であるというのは、隣人の必要を満たすことです。祭司やレビ人たちは、自分自身が汚れることや、自分の働きを汚れから守ることを気にしていました。返礼を期待できない人を助けるには、自己に死ぬ必要があります。その必要はないと弁明するのに自分の宗教を利用するのは、なんと便利な方法でしょう。
 それに対して、サマリア人は、この傷ついた「部外者」であり「敵」である人を隣人と見なし、自分の必要ではなく、情け深くもその人の必要を満たしました。肝心なのは、「私の隣人とはだれなのか」と問うのではなく、「虐げられ、抑圧された人の隣人にだれがなるのか」と問うべきだという点です。相手がだれであるかは、重要ではありません。困っている人は、私たちが助けるべき相手です。そういうことです。

水曜日:マタイ13:3~9を読んでください。収穫の前にきつい農作業をした農夫もいれば、彼らの働きの恩恵を得る農夫もいます。ときとして、伝道のための支援戦略は、準備の農作業よりも収穫を重視しすぎてきました。それは本来のあるべき姿ではありません。伝道師が登場して、収穫を期待しながら説教を始めるずっと前から、土作りはなされる必要があります。
 教会における「農作業」の過程には、土壌調査として、地域社会の必要の査定や調査、人口動態の確認、地域の指導者への聞き取りなどが含まれるでしょう。また、土作りや耕作としては、地域社会の査定や調査で明らかになった明確な必要を満たすことが、種まきとしては、セミナー、聖書研究、小グループ、そして雨(聖霊)を祈り求めることなどが含まれるでしょう。一度の接触だけでキリストに勝ち取られる人は、ほとんどいません。私たちは何度も接触する過程を踏んで彼らを育て、彼らが収穫される状態になる可能性を高める必要があります。もし私たちがわずかな数の行事だけに頼っているなら、芽生えたばかりの植物が収穫に至るまで生き残る見込みはないでしょう。

木曜日:マタイ10:5~10を読んでください。イエスの弟子たちが、彼ら自身の支えとなるものをほとんど何も持たずに伝道地へ行くよう直接命令されたことは、奇妙に思えます。どうやら、イエスが弟子たちをこのような状況に置かれたのは、神に頼ることと、地域住民への奉仕を通じて友情を築くことの重要性を教えるためだったようです。そしてこれらの地域住民は、弟子たちの奉仕が支援するだけの価値があると評価するでしょう。

 地域を支援するという働きは、昔も今も重要です。なぜなら人はすべてを自分の力で解決することができません。みなさんで協力し合うことは神さまのみこころでもあるのです。
 今日、日本の都市部では地域という考えが希薄になっています。それは地方の農耕を主体とした生活では、協働は欠かせません。そしてそれをしないと自分も不利益を被ります。また共同体の結束に、地域のまつりも重要な役割を果たしています。ところが都市部では家と働きの場所が異なり、元気に働いている人たちには地域の方々と一緒に何かをする必要が皆無になっています。
 このような時代に、その地域に立てられた教会は何ができるでしょうか。具体的な提言は今後するとして、今週の学びにも書かれていますが、支援や奉仕は相手が喜ぶために行わねばなりません。ケアは、その人の代わりに手となり、足となるのです。福祉の働きは無私でなければなりません。伝道と奉仕は別なのです。キリストも奉仕を伝道の手段とはされませんでした。けれどもそれがきっかけとなり関係が深まり教会へという方がいるでしょう。だれかを支援する働きは、あくまでも援助者ではなく支援される方の想いで動かされ、支援される方の喜びが目的でなければならないのです。