第7課 聴覚しょうがい者用:島田隼人

2016年 第3期  地域社会における教会の役割

第7課 イエスは人々の幸福を願(ねが)われた

1.今週のテーマ
 イエス・キリストの生涯(しょうがい)を学ぶ時、私たちは「地域社会における教会の役割」を知ることができます。「受けるよりは与(あた)える方(ほう)が幸いである」(使徒20章35節)と言われたイエスさまは、常に自分以外の人々の幸福を願って生きておられました。貧(まず)しいもの、助けを必要としている者たちに「与える」ことによって、自分自身にも平安と喜び、そして生きる力を得(え)ていたのです。
 お腹(なか)を空(す)かしている親と子供に一つのパンが与えられました。恵みのパンを受け取った親はまず子供にパンを与えます。自分の命以上に愛する子供の命を考えるのです。イエスさまも私たちに命を与えるために、御自身(ごじしん)の命を犠牲にしてくださいました。この姿こそ、現代の教会に求められている役割(やくわり)なのかもしれません。他者(たしゃ)の幸福のために、教会はどれほどの「犠牲(ぎせい)」をはらうことができるかを考えつつ学んでいきましょう。

2.ニネベにおけるヨナ(日)
 預言者(よげんしゃ)ヨナとイエスさまは、滅(ほろ)び行く人々に悔(く)い改(あらた)めのメッセージを語りました。しかし、二人には決定的(けっていてき)な違いがありました。それは、人々に対する「愛」です。ヨナには、ニネベの人々に対する愛情はありませんでした。ニネベの人々が悔い改め、神様からの赦(ゆる)しを得た時、ヨナは喜びと感謝を神様に現(あらわ)さずに、不満(ふまん)と怒りを神様に向かって現しました。自分の思い通りにならなかったからです(自分中心(じぶんちゅうしん)の伝道)。
 それに対して、イエスさまは御自分を裏切り、後に「十字架につけろ!」と叫(さけ)ぶ人々のために涙を流されました。どうにかして、人々を救いたいと願う愛の姿を見ることができます(他者中心の伝道)。どうにかして、地域に住む人々に救いの喜びを体験してほしい!この愛の共同体こそ、私たちの教会に与えられた役割なのかもしれません。

3.「とにかく」の原則(月)、愛は必ず(火)
 想像(そうぞう)してください。真夜中(まよなか)に家のドアをノックする人がいます。誰かと思い、ドアを開けると、そこには痩(や)せ細り、今にも倒れそうな大親友(だいしんゆう)が立っています。あなたは、この時どのような行動(こうどう)をとるでしょうか。「とにかく」、または「とりあえず」その大親友を家の中に入れるのではないでしょうか。家に入れずに、ドアの前に立たせたまま事情(じじょう)を聞いたりはしません。真っ先(まっさき)に考えるのは、大親友の回復(かいふく)だと思います。では、次の例(れい)ではどうでしょうか。真夜中に訪(おとず)れて来たのが大親友ではなく、見知らぬ人ならどのような行動をとるでしょうか。「とにかく」家の中に入れるでしょうか? それとも、大親友の時とは違う行動をとるでしょうか。イエスさまならどのような行動をとるでしょうか。W(ダブリュ)W(ダブリュ)J(ジェイ)D(ディー)という四文字(よんもじ)があります。これは、What(ワット) Would(ウッド) Jesus(ジーザス) Do(ドゥー)(イエスさまならどうする?)の頭文字(かしらもじ)をとった四文字です。クリスチャン、そしてキリストの教会は常にWWJDを考えつつ行動することが求められています。そして、WWJDを行動するにあたって不可欠(ふかけつ)となるのが「キリストの愛」なのです。「キリストの愛」が私たちの中に、そして教会の中にない限り、「とにかく」の原則は喜びの行動ではなく、苦しみの行動になってしまうのです。
 
4.二度目の接触(せっしょく)(水)、他者中心(たしゃちゅうしん)の教会(木)
 キリストの癒(いや)しを必要としているのは、教会の外にいる人たちだけではありません。牧師を含め、教会に集(あつま)っている全(すべ)ての人々が癒しを必要としています。時に教会は外に目が向いてしまい、教会の中で癒しを求めている人々を見失(みうしな)ってしまいます。キリストの愛と癒しで満たされているはずの教会において、孤独(こどく)と渇(かわ)きを覚えて静かに教会から出て行ってしまうのです。キリストの愛に接触していない時間が長ければ長いほど、私たちの中からキリストの愛は消えていきます。そして、キリストの愛なくしては、キリストのように周(まわ)りの人々を愛することができなくなるのです。私たちは、二度目、三度目、四度目と常にキリストに触(ふ)れていただく必要があるのです。互いに愛し合いなさいと言われたキリストの言葉を覚え、常にキリストの愛に接触している教会こそ、地域社会において大きな役割(やくわり)を担(にな)うことができるのです。

5.他者中心の教会(木)、さらなる研究(金)
 イエスさまは、他者の幸福を願うことに命をかけられました。他者中心の生涯(しょうがい)を送られたイエス・キリストを証(あかし)する教会は、他者中心の教会でもあるのです。教会にとってバプテスマはとても嬉しいニュースです。それは、教会員数が増えるという喜びではなく、バプテスマを受けた方が福音を知り、キリストを救い主として受け入れたことにある喜びです。教会は、キリストが十字架の死をもって救われた人々を一人でも探し出し、キリストを伝える共同体です。つまり、他者中心の教会とは、キリスト中心の教会でもあるのです。私たちの救い主イエス・キリストのために生きることこそが、他者中心の教会になる秘訣(ひけつ)でもあるのです。
 イギリスの神学者チャールズ・スポルジョンは、次のようなことを言いました。「あるクリスチャンは、キリストをだしにして暮(く)らそうとはかるが、キリストのために生きようとはしない。」キリストのために生きるクリスチャン、キリストのために生きる教会こそ、地域社会おいて人々に幸福を与える教会なのかもしれません。キリストのために生きるには何をすれば良いのでしょうか。私たち一人一人ができることを考え、祈り求めつつ安息日を迎えたいと思います。