第8課 安河内アキラ

2016年 第3期 地域社会における教会の役割

第8課 イエスは同情を示された

今週の聖句 列王記下13:23、出エジプト記2:23~25、ルカ7:11~16、Ⅰヨハネ3:17、ヨハネ11:35、ローマ12:15、Ⅱコリント1:3、4

今週の研究  同情とは「情(念)を伴う」という意味で、「情(念)」は、哀れみ、優しさ、悲しみなどと関係しています。それは、だれかと「一緒に」いること、しかも深い意味で一緒にいることを意味します。人々の悲しみに同情を示すことは、人々と「交わる」という問題をまったく新しい段階へ引き上げます。同情を示すことは、イエスが人々の心に触れる際の極めて重要な方法でした。

月曜日:イエスは地上での働きの中で人々と交わられたとき、彼らに対する同情と憐れみを示す状況に遭遇なさいました。「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた」(マタ14:14)。
 マタイ9:35とルカ7:11~16を読んでください。「同情」という言葉は、「共感」とか「哀れみ」といった関連のある言葉も思い起こさせます。さまざまな辞書によれば、「憐れみ」とは、哀れみ、同情、共感のこと。「哀れみ」とは、人の苦しみに対する思いやり深い悲しみのこと。「共感」とは、他者の感情を理解し、共有する能力のことです。憐れみと同情は、私たちが人々の苦しみの内容を理解するだけでなく、その苦しみを和らげ、取り除く手助けをしたいと望んでいることを示しています。
 イエスは同情を示すだけでなく、その同情を次の段階へ、つまり憐れみ深い行動へと引き上げられました。言うまでもなく、私たちも同じことをするように召されています。だれかの不幸をかわいそうに感じ、同情することなら、どんな人にもできます。問題なのは、その同情心から、私たちがどのような行動をするかということです。

火曜日:私たちは第5課で「善いサマリア人」の物語に触れました。イエスはこのサマリア人の例を紹介する際に、「ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思(った)」(ルカ10:33)とおっしゃっています。この憐れみが、傷ついた犠牲者のために行動するよう、サマリア人の旅人を駆り立てました。祭司やレビ人は、たぶんこう自問したのでしょう。「もしこの男を助けたら、私の身にどんなことが起こるだろうか」。しかしサマリア人は、こう自問したのかもしれません。「もしこの男を助けなかったら、彼の身にどんなことが起こるだろうか」。この物語の中で、サマリア人は私利私欲を捨てて犠牲者の立場で考え、行動を起こしています。彼は見知らぬ人のために自分の身の安全と富を危険にさらしました。言い換えれば、クリスチャンであることには、ときとして危険が伴い、大きな犠牲を払う可能性があります。
 憐れみや同情のこの段階は、自己を捨て去ることを伴います。私たちがだれかと一緒に苦しみ、彼らを回復へと向かわせようと努力するときに生じる何らかのものによって、私たちは傷つく可能性があります。要するに、真の憐れみや同情には犠牲が伴うかもしれないということです。

金曜日:間違いなく、慰め、同情、助けを必要としている人が、世の中には大勢います。その状況は、「何かをすることに意味があるのだろうか」「ちっとも効果がない」とだれかが考えてしまうほど、圧倒的に見えます。しかし、そのような考え方には多くの問題があります。
 第一に、もしすべての人がそのように考えたら、だれも困っている人を助けず、彼らの必要は今でもひどいのに、一層深刻になるでしょう。一方、助けることのできるすべての人が人々を助けるなら、現在の必要は深刻にはならないでしょう。
 第二に、私たちは聖書の中で、人間の痛み、苦しみ、悪が天のこちら側で取り除かれるだろうとは決して言われていません。それどころか、私たちは逆のことを告げられています。
 地上におられたとき、イエスでさえ、人間のすべての苦しみを終わらせることはなさいませんでした。彼は、御自分ができることをなさいました。私たちも同じようにするのです。私たちも、与えることのできる相手に、慰め、同情、助けを与えます。

 「同情を示す」これはほんとうに難しいことと思います。様々な苦しみの中で、言葉のかけようのない場面に遭遇することがあるでしょう。何か力になる言葉を言ってあげたいと思っても、ありきたりの言葉しか浮かばない。そんなことがありますね。
 わたしも牧師という仕事柄、何かを言わなければと思っていたことがありました。けれどもそればまちがっていることに経験や学びを通して徐々に気づかされました。苦しみに立ち向かうのは本人です。わたしが代わりにはなれません。そしてそこに生半可な言葉は要りません。カウンセリングの先生が、沈黙していても、そこに一緒にいるだけで伝わります。沈黙を恐れないように、そして相手がこちらが語りたかった励ましの言葉を自分の口から言うように、そのように相手の言葉を傾聴して行くことこそが大切と習って、それを実践するようにしています。神さまが守っています、祈っていますと言うことは簡単ですが、そんなことはきっと信仰者だったらわかっていると思います。辛い中から本人が絞り出すように「神さまが守ってくださっているのよね」と語ってくださるまで寄り添う、これが同情の姿ではないでしょうか。
 先日、教会が地域のために働きましょうと書かせていただきました。「自分は遠くに住んでいて教会の地域のためにはとても働けません」とメールをいただきました。そのとおりだと思います。教会ではできなくても、あなたが住んでいる街で、地域でできることをさがしてみてください。きっとそこから新しい道が開かれると思います。