第8課 聴覚しょうがい者用:英田恭司

2016年 第3期  地域社会における教会の役割

第8課 イエスは同情を示された

はじめに
 人の子(イエス)が栄光(えいこう)に輝いて天使たちを従(したが)えて来られ、その栄光の座(ざ)に就(つ)かれるときのことがマタイの25章に書かれています。栄光の王座(おうざ)に就(つ)いたイエスは、羊と山羊を分けるように、集められた人々を右と左に分けて、右側(みぎがわ)にいる人たちにこう言われます。
「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継(つ)ぎなさい。お前たちは、わたしが飢(う)えていたときに食べさせ、のどが渇(かわ)いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢(ろう)にいたときに訪(たず)ねてくれたからだ」と。
このお話は、同情的(どうじょうてき)な行為(こうい)をした人が祝福され、天の国の一員(いちいん)にふさわしいことを表しています。クリスチャンの特性(とくせい)の一つとして、同情はとても大切な要素(ようそ)です。
 今週は同情(どうじょう)について考えます。イエスがどのように同情を示されたのか? また私たちがどのように同情を示したらよいのか? 同情とはどのような行為(こうい)なのか?

1.イエスは同情を示された(月曜日.水曜日)
 暗証聖句にイエスの同情を示されたようすが記録されています。
「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐(あわ)れみ、その中の病人をいやされた」(マタイ14:14)。マタイ9:36、ルカ7:13参照。
※マタイ14:14の「同情」という言葉を、日本語聖書(新共同訳)では「憐(あわ)れむ」と訳(やく)しています。ルカ7章13節も同じです。(ルカ7:13の箇所、口語訳では「同情」と訳されています)

 イエスが大勢(おおぜい)の群衆(ぐんしゅう)をみて同情を示されたのは、飼(か)い主(ぬし)のいない羊のような有様(ありさま)だったからです。羊を飼うことのない日本では、羊飼(ひつじか)いがいない状態(じょうたい)がどんなものか十分にわからないのですが、外敵(がいてき)に無防備(むぼうび)な状態(羊飼いがいなければ盗人(ぬすっと)やオオカミなどにすきなように群(む)れを荒らされる)、自分たちがどこに行ったらいいのかわからない状態(羊は方向音痴(ほうこうおんち)なので、行きたいところがあっても自分たちだけではそこに行きつくことができません)、そんな状態なのでしょうか。イエスはそのような有様をみて深く同情を示されたのです。
 ペトロの短い福音(ふくいん)の物語(ものがたり)(使徒10:36-43)には、「イエスは、方々(ほうぼう)を巡(めぐ)り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされた」と記(しる)されています。イエスの同情心を突(つ)き動かしたのは、悪魔に押さえつけられ、どうしようもなく生きている人たちの哀(あわ)れな状態を見たからです。そして人々を救おうとされたのです。
「イエスは涙を流された」(ヨハネ11章1-44参照(さんしょう))
 ヨハネの記録している福音の物語には、イエスは親友のラザロが亡くなったとき涙を流されました、とあります。この涙は、愛するラザロが死んだための涙だったのでしょうか。イエスはラザロが亡くなることも、亡くなった後によみがえることも知っておられました。しかし涙を流されたのです。この物語をよく読んでみると、マリヤが泣き、一緒(いっしょ)にいたユダヤ人たちも泣いているのを見て、涙を流されたのです。人々の悲しみに共感(きょうかん)(寄(よ)り添(そ)われた)されたのでしょう。同情には、人々の心に寄り添うことも大切な一面(いちめん)です。
 死によって愛する者と別れなければならないという現実(げんじつ)の前に泣き崩(くず)れている人々を見て、人類のまったく哀(あわ)れな状態(じょうたい)をご覧(らん)になったのでした。しかも死からよみがえらせる力のある者の前で泣いている人々を見て、心に憤(いきどお)りを覚(おぼ)えられました。ホワイト夫人は次のように表現(ひょうげん)しています。「イエスの心は、各時代のすべての国の人類家族の苦痛(くつう)によって刺(さ)しつらぬかれた。罪深い人類のわざわいはキリストの魂(たましい)に重かった。主が人類のすべての苦しみを救いたいと熱望(ねつぼう)された時、その涙の泉が破られた」(ガイド57頁)

2.自分の体験した苦難(くなん)が同情と慰めを示す(木曜日)
 私たちは子供のころ、走って転(ころ)んで足をすりむいたりしました。大人になって、子供が走って転(ころ)んで泣いている姿を見ると、その子を思いやる(憐(あわ)れむ)ことができます。なぜなら、私たちも同じ経験をしてきたからです。
 私たちは自分自身の悲しみから学んできたので、悲しむ人々を助けることができるのです。次の聖句は、周囲(しゅうい)の人々に同情と慰めを示すうえで、私たち自身(じしん)の苦しみが役立つことを示しています。
「わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛(じあい)に満(み)ちた父、慰(なぐさ)めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。神は、あらゆる苦難(くなん)に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。」(Ⅱコリント1:3.4)

3.自分の出来ることからはじめる(金曜日)
 世の中には慰め、同情、助けを必要とする人が大勢います。私たちの示す同情はそれらすべてを解決(かいけつ)できません。聖書は、人間の痛み、苦しみ、罪はこの世の中からすべて取り除(のぞ)かれるとは言っていません。それどころか増々(ますます)ひどくなると告(つ)げています。イエスが地上におられたとき、人間のすべての苦しみを終わらせることはなさいませんでした。ただご自分ができることをなさいました。私たちも出来ることから始めましょう。

4.話し合ってみましょう(火曜日)
よきサマリア人のたとえ(ルカ10:25-37)、
 放蕩(ほうとう)息子(むすこ)のたとえ(ルカ15:11-32)の中には「同情」「憐れみ」といったものがどのようにあらわされていますか?
 真の憐れみや同情には犠牲が伴(ともな)うかもしれないことを記憶しましょう。