第9課 安河内アキラ

2016年 第3期 地域社会における教会の役割

第9課 イエスは人々の必要に応えられた

今週の聖句 マルコ5:22~43、10:46~52、ヨハネ5:1~9、詩編139:1~13、マルコ2:1~12、使徒言行録9:36~42

今週の研究  人々の必要や地域社会の必要について、私たちが彼らに話しかける努力をするとき、それによって私たちの関心が彼らに伝わり、どうすれば感謝される形で奉仕できるかがわかります。さらに、新しい友人もできるでしょう。

日曜日:人々の必要に応える最大の機会は、しばしば中断を通じてもたらされます。ほとんどの人は中断されることを避けようとし、自分の計画が狂わされたときには怒ります。イエスの働きに目を向けるとき、私たちは、彼が世話された必要の中には中断としてもたらされたものがあり、彼がそれに愛情を込めて対応なさったことに気づきます。もしそのことについて考えるなら、働きのために私たちが得る多くの機会は、中断という形でもたらされます。
 私たちは「善いサマリア人」の物語についてすでに見ました。彼があの場所を通りがかったとき、どこへ行こうとしていたのか、何をしようとしていたのかは、だれにもわかりません。しかし、彼は助けようとして、とにかく立ち止まりました。まさにこれが中断です。

月曜日:マルコ10:46~52とヨハネ5:1~9を読んでください。どちらの場合も、彼らの望んでいることが明らかであるにもかかわらず、何をしてほしいのか、とイエスが尋ねておられることに注目してください。たとえ明らかでなかったとしても、イエスはその必要をご存じだったことでしょう。
 しかし、このような質問をすることで、イエスはその男たちに敬意を払われました。イエスは、御自分が彼らの声に耳を傾けていること、また耳を傾けることによって、彼らが苦しんでいる事柄に関心を寄せていることを示されました。どれほど多くの場合、人々は単なる話し相手、単に話を聞いてくれる人を欲しがっていることでしょうか。なぜなら、ときとして人は自分の苦しみについて話せるだけで、気が楽になることがあるからです。

木曜日:地域社会の必要を効果的に満たすための過程について考えるとき、あなたは、「これはあまりに多くの献身と時間を必要とするなあ」と思うかもしれません。私たちは近道が好きです。先の聖句(ルカ14:25~35参照)に含まれる二つのたとえ話は、宣教と弟子になる責任を軽く見てはいけない、と私たちに警告しています。これらのたとえ話は、宣教のための分析と計画は不可欠であることを思い出させます。これは良い管理の問題です。ルカ14:34の塩気というのは、献身をあらわしています。それがなければ、私たちの奉仕も弟子になることも無駄ですし、意味がありません。私たちは主に対する熱心で忠実な献身を必要としています。もし私たちにそれがあるなら、働きに対する熱心で忠実な献身はあとからついてきます。

 日曜日の学びの引用文のはじめにある「人々の必要に応える最大の機会は、しばしば中断を通じてもたらされます。」これはまったくそのとおりですね。介護の働きをしていると、予定を立ててもそのとおりには行かないことばかりです。それは相手が人間だからですね。子育ても同じでしょう。自分の思った通りには行かず、親はイライラして切れてしまいます。けれども相手の意思のある人間だから当然です。
 助けが必要な場面は、こちらの都合でやってはきません。助けようとしたら、自分のやりたいことを中断しなければならないのです。先日、友人が大雨が降っている時に街の中を歩いていました。すると横断歩道を渡っていた視覚障害者が、雨音で横断を助ける音楽が途中で聞こえなくなってしまい、あらぬ方向へ歩いて行くのが見えました。このままでは危ない! と思った彼は、傘を置いて走って行って助けたそうです。
 今わたしが助けなければ、他に誰もいないということがあるかもしれませんが、そのような時でも咄嗟に動けないことがしばしばあります。これから日本では認知症の高齢者が増加して街の中で徘徊される、そんな場面に出会うことが多々あるでしょう。もしそんな場面にであったら、彼らはとても不安でいます。やさしく声をかけて、どこか座れたら一緒に腰かけて落ち着いていただき、遠慮なく110番してください。すぐに助けて来てくださいます。そのようなやさしさが、ご本人のいのちと介護者を助けます。