第1課 聴覚しょうがい者用:英田恭司

2016年 第4期  ヨブ記

第1課 結末(けつまつ)

はじめに
 今期は聖書の中で最初に書かれた書巻(しょかん)の一つ・ヨブ記を学ぶことになりました。ヨブ記は、ユダヤ人が「真理(しんり)の書」と呼んでいる三書(さんしょ)(他は詩編(しへん)と箴言(しんげん))のうちの一つです。とても興味深(きょうみぶか)い書巻(しょかん)です。このヨブ記を研究できることを神に感謝したいと思います。
 はじめに42章あるヨブ記が、どのような構成(こうせい)になっているかを知りましょう。
文体(ぶんたい)は、散文(さんぶん)(通常(つうじょう)の文章(ぶんしょう))と詩文(しぶん)(詩の文章)からなっています。
(散文・詩文がわからなければ、わかる人に聞いてみましょう)
散文(さんぶん)は、1:1~2:13と42:7~16の箇所(かしょ)です。
詩文は、散文に挟まれる形で書かれています。3:1~42:6の箇所です。
散文の箇所(かしょ)は、プロローグとエピローグからなり
詩文の箇所は、ヨブの嘆(なげ)きと3人の友人との対話(たいわ)、エルフの弁論(べんろん)、そして神の弁論からなっています。
  1:1~2:13       プロローグ(物語(ものがたり)のはじまり)
    3:1~31:40      ヨブの嘆きと3人の友人との対話(弁論)
    32:1~37:24     エリフの弁論
    38:1~42:6      神の弁論
  42:7~42:17     エピローグ(物語のおわり)

1.永遠(えいえん)の疑問(ぎもん)(ガイドの「はじめに」から)
 私たちクリスチャンは神を信じるために論理的(ろんりてき)で合理的(ごうりてき)な理由をもっていますが、「もし神が存在(そんざい)し、とても善良(ぜんりょう)で、愛情深く、力強い方であられるなら、なぜこれほど多くの苦しみが存在するのか」という永遠につきまとう疑問ももっています。ヨブ記は一人の男性に関する物語ですが、すべての人はヨブと同じように道理(どうり)にかなっていないように思えることで苦しむ経験をしています。ですから、ヨブ記は私たち全員の物語(ものがたり)なのです。
 ヨブ記はこの難(むずか)しい問題に対する答えをいくつか与えています(すべてではない)。永遠の答えはイエス・キリストですが、私たちは私たちの無知(むち)のために苦しむのです。余分(よぶん)に苦しむことのないようにヨブ記を研究しましょう。ヨブの苦しみは、キリストとサタンの大争闘という背景(はいけい)の中で始まりました。私たちの生きているこの世界は、大争闘(だいそうとう)のただ中にあることを覚えましょう。私たちがこの世になぜ生きているのか?いかに生きるべきか?を問いながら、今期の研究を深めていきましょう。パウロは私たちのドラマを「わたしたちの戦いは、血肉(けつにく)を相手にするものではなく、支配(しはい)と権威(けんい)、暗闇(くらやみ)の世界の支配者、天にいる悪の諸(しょ)霊(れい)を相手にするものなのです」(エフェソ6:12)と言っています。ですから、ヨブ記をガイドの研究と共にじっくり読んで学びましょう。

2.ヨブ記の結末(けつまつ)
 ヨブ記42:10~17を読むと、ヨブが災(わざわ)いに巻(ま)き込まれて失ったものはすべて回復(かいふく)します。さらにまさった形で回復します。最初に持っていて失った財産は2倍に増しくわえられました。失った7人の息子と3人の娘に代わる、7人の息子と3人の娘を新たに得ます。その美しさは、ヨブの娘のような美しい娘は、国中(くにじゅう)どこにもいなかったと言われるほどでした。ヨブの兄弟(きょうだい)姉妹(しまい)、かつての知人(ちじん)たちはこぞって彼のもとを訪(おとず)れ、食事を共にし、主が下されたすべての災(わざわ)いについていたわり慰(なぐさ)め、それぞれ銀(ぎん)一ケシタと金の環(わ)一つを贈(おく)りました。ヨブはその後百四十年生き、子、孫、四代(よんだい)の先まで見ることができました。そしてヨブは「長寿を保ち、老いて死んだ」と記録されています。
 「長寿(ちょうじゅ)を保(たも)ち」(ヨブ42:17)と訳(やく)されている言葉は、「満(み)ち足(た)りて(満足(まんぞく)して)」(創25:8.35:29.代上29:28)とも訳されます。ヨブの後半(こうはん)の人生が満足のいくものであったことがうかがえます。ヨブは幸せ(満足)のうちに人生を終えたようです。

3.なお残る疑問
 ヨブ記は、「長寿を保ち、老いて死んだ」とヨブにとって、物事(ものごと)がうまくいっている状態(じょうたい)で締(し)めくくっています。しかし私たちは、ヨブのような状況で終わらない人の物語を数多(かずおお)く知っています。それは聖書を参照(さんしょう)しなくても、私たちの日常(にちじょう)でごく当(あ)たり前に経験していることなのです。
 ガイドでは聖書の登場(とうじょう)人物(じんぶつ)の中から、アベル、ウリヤ、エリ、ヨシヤ王、バプテスマのヨハネ、ステファノが取り上げられていましたので、この人たちの終わりを調(しら)べてください。とても満足のいくものではないことがわかります。
 ヨブは幸福な結末(けつまつ)を迎えましたが、そうでない不幸な結末を迎える人もいます。人の終わり(結末)は死です。この死の問題を解決しなければなりません。
ヨブは、「人が死ぬと、生き返(かえ)るでしょうか」(ヨブ14:14新改訳)と問いかけています。新共同訳では「人は死んでしまえば/もう生きなくてもよいのです」と訳しています。あきらめの言葉をヨブは吐(は)いているようにもとれます。ヨブが終わったと思った人生を、神は百四十年にもわたって伸ばされ回復されました。これは部分的(ぶぶんてき)ではありますが、人間の悲しみ苦しみの結末(けつまつ)を神はこのようにしてくださるという希望と約束を予示(よじ)しているのでしょう。
 ヨブは、死者は「生き返るでしょうか」と問いました、続いて「私の代わりの者が来るまで待ちましょう」と言って、「代わりの者」への希望を表し(ヨブ14:14.15新改訳・木曜日参照)、 「あなたが呼んでくだされば、私は答えます」と表明(ひょうめい)します。

4.人の結末(けつまつ)が死ではないという約束は、イエス・キリストの福音の中にあります
 暗唱聖句「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。』」(ヨハネ11:25)