第10課 長田和信

2016年 第4期 ヨブ記

第10課 エリフの怒り

はじめに
 「物質的喪失」、「子どもたちの死」、「自分自身の病気」と、次から次へと災難が、ヨブに襲いかかりました。それだけでも苦しかったはずなのに、「三人の友人たちによる非難」がさらに、ヨブに、精神的ダメ-ジを与えました。その上、追い打ちをかけるように、ここにもう一人、ヨブを非難する年若き友人エリフが登場します。

日曜日 惨めな慰安者たち(慰める者たち)
 ヨブの三人の友人たちは、ヨブの身に降りかかった悲劇について、それは彼の「隠れた罪に対する神からの罰」だと主張しました。一方で、ヨブは彼を襲った過酷な運命を、その苦しみは受けるいわれがないと確信して嘆き続けました。しかし、本当はどちらも「謙虚さ」を必要としていました。残念ながら、有限な人間には限られた体験と知識しかないからです。

月曜日 エリフの登場
 ヨブ記32:1~5を読んでください。「エリフ」が多くの「怒り」と共に登場して来ます。しかし、エリフが「義憤」と思ったその怒りも、彼の狭い人間的知識と少々の体験から来る偏見にしか過ぎませんでした。
 他人の境遇や言葉を解釈するとき、「私には限られた経験と知識しかない」ことを謙虚に自覚した上で、「判断する」、あるいは、「判断しない」で保留にすることは大切なことではないでしょうか?真実はやがて明らかになることもあります。ヨブのケ-スも、3500年後の私たちには、霊的世界における「神とサタンの大争闘」の結果であることが明白です。エリフの「怒り」は残念ながら、「義憤」ではありませんでした。若輩者の思い上がりから来る「私憤」にしか過ぎませんでした。私も、自分の過去を振り返り、若い日に同様なことがありましたので反省しきりです。

火曜日 神を擁護するエリフ
 エリフは、誠実な思いから、神を擁護しました。神を擁護するエリフの言葉は正しいものでした。しかしながら、エリフは実は、自分の「神についての考え」を擁護していただけかもしれません。要するに「自己防衛」です。自分の考える「神についての理解(偏見)」が崩れることを恐れるあまり、彼はヨブを非難したのではないでしょうか?

水曜日 災いの不合理  
 ヨブ記を読む限り、ヨブも、その4人の友人たちも、その苦しみの原因である「サタン」の存在を知らなかったか、あるいは、意識していなかったかのように見えます。彼らは、「神とサタンの大争闘」というベ-ルの向こう側にある「霊的世界」を知らないようです。その知識の欠如が、彼らが「ヨブの災い」を理解できない一番の大きな要因でした。

木曜日 信仰の難しさ  
 ヨブ記1:1~2:10を読んでください。ここを読むとき、私たちはヨブの苦しみの原因が「彼の悪」にではなく、むしろ「彼の善良さ」にあったことを知ることができます。ヨブ記1:8にはこう書いてあります。「主はサタンに言われた、『あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか』」。しかし、サタンは神に挑戦します。ヨブ記1:11です。「しかし今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。神はこの後、ヨブをサタンの手にまかせました。その結果としての「悲劇」です。ヨブは、「神とサタンの大争闘」の一コマに巻き込まれ、本人の知らないところで「ドラマの主人公」に仕立てられたのです。そして、ヨブはその存命中、自分を主人公としたこのドラマの内幕を完全には知ることがなかったのです。ガイドは72ペ-ジの終わりに、こう書いています。「しかしここには、私たちがヨブ記から学ぶことのできる最も重要な教訓の一つがあります。見えるものによらず、信仰によって生きるという教訓、つまりヨブのように、物事の起きる理由を合理的に捉え、説明できないときでさえ、神を信頼し、神に忠実であり続けるという教訓です。・・・私たちが信仰によって生きるのは、ヨブのように、たとえ周囲で起きていることの意味を理解できないときでも、神に信頼し、神に服従するときです」。

終わりに
 私たちはヨブ記を通して、かなり、はっきりと「神とサタンの大争闘」を知ることができます。私たちの人生に、時に起こる不可思議な出来事も、「大争闘」の一コマだと受け入れることができます。そう考えれば、私たちが信仰を働かせることは、実はヨブよりも容易です。私たちに、「ヨブ記」が与えられていることを感謝したいと思います。