第12課 聴覚しょうがい者用:武田将弥

2016年 第4期  ヨブ記

第12課 ヨブの贖(あがな)い主(ぬし)

1・『今週のテーマ』
 ヨブの苦しみの物語(ものがたり)が終わりに差(さ)し掛(か)かってきた頃(ころ)(ヨブ記38章)突然(とつぜん)神様がヨブの目の前に現(あらわ)れます。まさしく物語のクライマックス〈感動の一番高まるところ〉です! 長い間ずっとヨブはもだえ苦しみながらも「ひと目で良いから神様に会いたい…少しでいいから話がしたい!」と心の底(そこ)から求め、主を待(ま)ち望(のぞ)んでいたのです。そんな彼の願いが届いたかのように、神様が会いに来てくださり、直接(ちょくせつ)に言葉を掛けてくださったのです。神様と出会(であ)う経験(けいけん)をしたヨブは、心にあった問題(もんだい)や疑問(ぎもん)などは全(すべ)て吹き飛んで消(き)え去(さ)ってしまいました。

 まだキリストと出会(であ)ったことのない人は不思議(ふしぎ)に思うかもしれませんが、神様とはそういうものなのです。これは理屈(りくつ)で説明できるものではなく、神様と出会うという体験(たいけん)をした人だけが分かる、絶対(ぜったい)の安心・幸(しあわ)せが得(え)られる奇跡(きせき)なのです。

 主は我々を創(つく)られた神様です。小さな子供は親と一緒(いっしょ)にいるだけで安心が得られるように、人間は永遠(えいえん)の命と、本当(ほんとう)の親でもある神様に出会(であ)うだけで、子供である私達(わたしたち)は本能的(ほんのうてき)に〈生まれつきのように自然に〉安心と平安(へいあん)を感(かん)じ取るものなのです。
 
 神様がヨブに語(かた)り終(お)えた後、神様の言いつけでヨブは自分を責(せ)めてきた友人達(ゆうじんたち)のために「執(と)り成(な)しの祈り」〈ロマ8:26,27参考〉を捧(ささ)げ、そして彼らは許されます。そしてヨブ自身(じしん)も不幸が襲(おそ)ってくる以前(いぜん)より、ずっと豊かな祝福が与えられて、充実(じゅうじつ)した〈豊かに満たされた〉人生を全(まっと)うしたという説明がされて、お話が終わります。

 私達はヨブを自分に置(お)き換(か)えて読み、人間の視点(してん)〈人間としての立場、見方〉だけで物語を捉(とら)え〈理解し〉がちですが「聖書は全(すべ)てイエス・キリストを指(さ)し示(しめ)している」という大事(だいじ)な視点(してん)〈見方〉を忘れてはいけません。ヨブ記を通してキリストのお姿と、神様が我々に何を伝えたいのか注目(ちゅうもく)〈心と目を向ける〉しましょう。
 
2・『わたしを贖(あがな)う方は生きておられ(る)(日)』『人の子(月)』

 聖書の神様はこの宇宙(うちゅう)を創(つく)ってくださったお方です。ですから全世界に存在(そんざい)するものは全(すべ)て神様のものです。最初の人間たちは、考え方も生き方も、生活の全てが神様を中心にして行動(こうどう)していましたが、サタンによって罪が入ってからは、自分の事ばかりを考えて生きるようになってしまいました。こうなると神様の国には住めません。人はエデンの園(その)を出ることになりましたが、人間を可哀想(かわいそう)に思った神様は、自分の一人息子であるキリストの命を代わりにして、永遠の命を失った人間たちに再(ふたた)びチャンスを与えることに決(き)めたのです。それがイエス・キリストの十字架でした。これを十字架の犠牲(ぎせい)(贖(あがな)い)といいます。
 主は全(すべ)てをお創(つく)りになられたので、このお方だけが命を与えて人を救うことが出来るのです。神様は創るだけではなく、その全てを愛してくださるので、自分の手から離れていってしまった人間を救おうとまで思ってくださる、慈悲深(じひぶか)いお方(かた)なのです。
 
 ヨブは苦しみの中で神様に向かって「天におられるあなた様は、人間ではないのだから、きっと私のような小さな存在(そんざい)が苦しんでいる気持なんか理解(りかい)できないし、その必要もないでしょうね…」と愚痴(ぐち)をこぼします。しかしこれは全(まった)くの見当違(けんとうちが)いでした。

 神様はどんな人にも繋(つな)がっています。人の心は読めるし、どんな事でも伝わってしまいます。ですから人の苦しみや悲しみが分からないどころか、今あなたがどういう状況(じょうきょう)なのかが全(すべ)て理解(りかい)出来てしまうのが神様です。

 またイエス・キリストのことを忘れてはいけません。主は天から世界を見下(みお)ろすだけではなく、人間を助けるために悪魔(あくま)や悪人(あくにん)がウヨウヨいる危険な地上に、自ら人間になって降(お)りてきてくださったのです。私達が信じて愛するご主人様はとても慈悲深(じひぶか)くて、親(した)しみの持てる優(やさ)しいお方(かた)なのです。

3・『キリストの死(火)』『人の子の苦しみ(水)』
 
 神様を信じるクリスチャンは、完璧(かんぺき)な〈欠点(けってん)の全(まった)くない〉イエス・キリストをお手本(てほん)にして、主に似(に)た者(もの)となっていくように目指(めざ)しています。要(よう)するに人間の生きる目標(もくひょう)(目的)は「神様」なのです。私達は神様の所から出てきたので、神様のところに帰らなければいけません。しかし罪がある状態(じょうたい)では神様のところに帰ることができないので、キリストの十字架による身代(みが)わりの死が必要なのです。主は地上に降りてきて私達を導(みちび)きつつ、自分の命を差し出すために、地上に生まれて来てくださいました。
 
 決(けっ)して間違(まちが)えてはいけないのは、主が体験(たいけん)された十字架は、私達がイメージ出来る程度(ていど)の普通の苦しみや死ではありませんでした。映画や絵画(かいが)などで血を流して苦しまれるイエス様を見たことがあるかもしれません。確(たし)かにムチで打(う)たれ、殴(なぐ)られ、十字架に釘(くぎ)で打(う)ち付(つ)けられたのですから、痛(いた)いのは当(あ)たり前ですが、実際(じっさい)にイエス様を一番苦しめたのは「肉体(にくたい)の痛(いた)み」ではなく「罪(つみ)による命の痛み、精神的(せいしんてき)な苦しみ」だったのです。

 我々の場合は仲保者(ちゅうほしゃ)〈執(と)り成(な)しをしてくださる方(かた)〉であるイエス様が守ってくれます。しかし主の場合(ばあい)は自分の身(み)を守ってくれる存在(そんざい)がいません。我々は自分の罪の重荷(おもに)だけを背負(せお)っているかもしれませんが、イエス様の場合(ばあい)は全(すべ)ての罪を担(にな)ってくださったわけですから、その苦しみは想像(そうぞう)を絶(ぜっ)する〈超(こ)える〉わけです。イエス様が経験された十字架の苦しみは、我々では担(にな)いきれないほどのものだったのです。ですからどんなに映画の技術や、絵の表現力(ひょうげんりょく)が発達したとしても、主が感じられた苦しみを表現することは絶対に不可能(ふかのう)です。

 イエス様はそこまでの苦しみを味(あじ)わう〈経験する〉ことになってでも、我々人間を救いたいと思って、茨(いばら)の道〈大変な苦難の道〉と知りつつも足(あし)を踏(ふ)み出(だ)してくださった愛と勇気(ゆうき)のお方(かた)なのです。この事実(じじつ)を知れば知るほど、イエス様の理解(りかい)が深くなればなるほど、神様に対しての申(もう)し訳(わけ)無(な)さと、溢(あふ)れるばかりの感謝で心が満(み)たされ、ますます頭が上(あ)がらなくなってくるのと同時(どうじ)に、自分を取り巻(ま)いていた小さな問題は全て気(き)にならなくなってしまうものなのです。

4・『正体(しょうたい)をあばかれたサタン(木)』『さらなる考察(こうさつ)(金)』
 
 天で反逆(はんぎゃく)を引き起(お)こしたサタンの主張(しゅちょう)は、神様のご品性や統治(とうち)に対して、疑問(ぎもん)を投げかけるものでした。「神様は嘘(うそ)つきで、愛のお方ではない!」というものです。しかし騙(だま)されてはいけません。サタンの方法に目を向けて下さい。自分が正しいと証明するために、相手を苦しめ攻撃(こうげき)しています。しかし神様はご自分が正しいと証明するために、相手を攻撃していません。むしろ自分を犠牲にして相手を助けようとなさっています。
 平和のために戦(たたか)うというのは矛盾(むじゅん)です。平和(へいわ)のためには平和な方法で対処(たいしょ)しなくてはいけません。我々(われわれ)は戦うのではなく祈(いの)りと許(ゆる)しだけです。そして敵(てき)は外(そと)ではなく、自分の内(うち)にいる弱い自分と戦うことなのです。我々は敵を間違(まちが)えないようにしましょう。