第2課 安河内アキラ

2016年 第4期 ヨブ記

第2課 大争闘

今週の聖句 ヨブ記1:1~5、ヨブ記1:6~12、ゼカリヤ3:2、マタイ4:1、エゼキエル28:12~16、ローマ3:26、ヘブライ2:14

今週の研究  私たちは今週、目の前の現実の背後にあるもっと広い現実―ヨブ記の中心テーマ―に目を向けます。そして、私たちの人生や物語はヨブのものとは異なりますが、私たちには共通することが一つあります。ヨブと同様、私たちはみな、この争闘に巻き込まれているということです。

月曜日:聖句は、この対決が天におけることだったと明言していませんが、それが起こったのは、間違いなく天でした。それゆえ、この被造物である天使は、天の神の前に立ち、「神の使いたち」の前で、面と向かって神に挑戦しているのです。このように現世の指導者に話しかける人間を想像するのは困難ですが、ここには神御自身に向かってそうしている存在がいます。なぜこのようなことが起こったのでしょうか。
 その答えは、聖書全体を通じてさまざまな場所に、さまざまな形であらわれている一つの主題の中に見いだされます。それが大争闘と呼ばれるものであり、ヨブ記だけでなく、聖書全体と、地上のあらゆる罪と苦しみの悲しい物語についての聖書の説明を理解するうえで助けとなる効果的な枠組みを提供してくれるのです。そしてもっと重要なことに、それは、地上における罪と苦しみの問題を解決するために、イエスが十字架で成し遂げてくださったことをよりよく理解するうえで、私たちの助けとなります。

水曜日:エレン・G・ホワイトは、神の統治の基礎として「愛の律法」について語っています。神は「強制された服従」を望まれなかったので、すべての道徳的被造物に「自由意志を与え」られたと、彼女は記しました。しかし、「神が被造物にお与えになった自由を悪用した者があった。罪は、キリストの次に位し、最大の栄誉を神から受け、天の住民の中で最高の力と栄光を与えられていた者から始まった」(『希望への光』14ページ、『人類のあけぼの』上巻4ページ)。そして次に、サタンの堕落を描写するために、彼女は先のイザヤ書とエゼキエル書の聖句を引用しています。
 ここでの極めて重要な概念は、「愛の律法」と自由意志の存在です。聖書は私たちに、サタンが彼自身の輝きと美しさのゆえに自分を称揚し、高慢になったと告げています。どうしてこのようなことが起きたのかはわかりません。それは、Ⅱテサロニケ2:7が「不法の秘密の力」と呼ぶものの一部に違いなく、神の律法がいかに神の統治の基礎と密接に結びついているのかを私たちが理解するとき、完全につじつまが合います。肝心なのは、サタンがヨブ記に登場するまでに、彼はすでに堕落しており、すでに始まっていた争闘はかなり進行していたという点です。

木曜日:昨日触れたように、例えば、サタンの反逆がいかに始まったのかということについて、ヨブ記は何も語っていません。サタンが大争闘で最終的にどのように敗北するのかということについても、一切語っていません。それどころか、このあとに続くヨブ記の中でサタンが重要な役割を果たしているにもかかわらず、2回だけ登場したあと(ヨブ1:6~12、2:1~7)、彼は二度と姿を見せません。彼が引き起こした破壊は残るのに、彼は突然姿を消しています。残りの部分は、彼に言及さえしていません。その代わりに、このあとに続くヨブ記のほとんどは、サタンではなく、神に関する内容です。そして、それは道理にかなっています。なぜなら、ヨブ記は結末において、神と、神が本当はどのような方なのかということについて記しているからです。
 それにもかかわらず、聖書は大争闘におけるサタンの敗北に関する疑問への答えなしに、私たちを置き去りにしていません。そして、その敗北の中心的役割を果たすのは、十字架におけるイエスの死です。

 今週は、ヨブ記の大きなテーマである善と悪との大争闘について学びます。聖書を理解するために、また今日わたしたちの世界で起こっていることを理解するために、この考えは重要ですね。ヨブ記を読みながら、いつも思うのですが、この時と同じような状況がわたしにも降りかかったら……それを受け入れて信仰を保ち続けることができるでしょうか。考えてしまうことがあります。思っていることがかなったら、すべてがうまく進んだことに感謝するだけが信仰ではないことを、この物語は教えています。
 ヨブも苦しみの理由がわからず、友人たちと問答をくりかえしています。わたしたちも苦しみの最中にもがき苦しみながら合理的な答えを見つけようと苦闘するかもしれません。人生の終わりまで答えは見つからないかもしれないけれど、それでも神さまが最善の道を備えてくださると信頼してつながり続けることをヨブ記は教えているのではないでしょうか。目に見えない善と悪との激しい戦いが起こっているでしょう。けれども、つながっていれば実を結ぶという約束(ヨハネ15:5)を信じて、信頼することしかわたしたちのできることはないのではないでしょうか。