第3課 安河内アキラ

2016年 第4期 ヨブ記

第3課 「利益もないのに神を敬うでしょうか」

今週の聖句 ヨブ記1章、ヨブ記2章、Ⅰコリント4:9、創世記3:1~8、フィリピ4:11~13、マタイ4:1~11、フィリピ2:5~8

今週の研究  私たちは今週、大争闘が激しさを増す中、私たちがいかに適応すべきかについて一層理解しようと努めつつ、ヨブ記の最初の2章を引き続き研究します。

火曜日:神の統治、愛に基づく統治の中核を成すものは、選択の自由です。神は私たちに、強制されてではなく、愛するがゆえに御自分に仕えてほしい、と願っておられます。「サタンは、ヨブが利己的な動機から神に仕えているとほのめかした。……真の宗教が神の御品性に対する知的理解と愛から生じるということ、真の礼拝者が―見返りのためではなく―宗教そのものを愛するということ、彼らが神に仕えるのは、そのような奉仕自体が正しいからであって、単に天が栄光に満ちているからではないということ、彼らが神を愛するのは、神が彼らの愛情と信頼に値するお方であるからであって、単に神が彼らを祝福されたからではないということを、サタンは否定しようとしたのである」(『SDA聖書注解』第3巻500ページ、英文)。

水曜日:ここで、ヨブの物語におけるもう1人の犠牲者、つまり彼の妻を取り上げるのは、たぶん一番良いタイミングでしょう。彼女はヨブ記2:9、10にだけ登場します。彼女に関して、それ以外のことは書かれていません。しかし、すでに起こったあらゆることを考えると、この不幸な女性が味わった悲しみを、だれが想像できるでしょうか。ヨブ記1章において、子どもたちやほかの犠牲者を失ったという彼女の悲劇は、苦しみの普遍性をあらわしています。私たちはみな、大争闘に巻き込まれており、だれ1人として逃れることができません。
 ヨブの妻が、まさに神の称賛されたこと〔無垢であること〕に関してヨブに挑む者になったというのは、なんと不幸なことでしょう。ヨブの妻は嘆き悲しみの中で、まさに神が、ヨブはしないであろうと言われたことをするように彼を後押ししています。私たちは確かに彼女を裁くことはできませんが、彼女は、私たちがほかの人のつまずきの石にならないよう、いかに注意しなければならないかということの大きな教訓です(ルカ17:2参照)。

木曜日:ヨブ記1:22には、「このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった」とあり、ヨブ記2:10には、「このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった」と記されています。いずれの場合においても、ヨブは〔サタンの〕攻撃にもかかわらず、主に忠実であり続けました。いずれの聖句も、ヨブが行動でも言葉でも罪を犯さなかったという事実を強調しています。
 言うまでもなく、これらの聖句は、ヨブが罪人ではなかった、と言っているのではありません。聖書は、私たちがみな罪人だと教えているのですから、そんなことは決して言いません。「罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません」(Ⅰヨハ1:10)。「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生き(る)」(ヨブ1:1)ことで、人の罪がなくなるわけではありません。ほかのすべての人と同様、ヨブは罪の中に生まれ、救い主を必要としていました。

 もしあなたが突然ヨブのようにとまでは行かないにしても、災害などに巻き込まれて家族や家などを失ったとしましょう。あなたは、その事態を前にして何を考えるでしょう。わたしたちは神さまを信じているので、それでも神さまに信頼できるかもしれません。けれどもヨブの妻のように神を呪うようにと言いたくなる思いは、痛いほどわかりますね。わたしも同じことを言っているかもしれません。また神さまを知らない人にとっては、神を呪う以外に気持ちの持っていく場所が無いでしょう。
 わたしどもの苦しみの裏には善と悪との戦いがあることをヨブ記は教えています。悪魔は人々が神の愛を信じなくなるために、このような不幸なことを起こすからです。苦しみの要因はいろいろあるでしょう。わたしたちが自らの罪の結果を刈り取っている場合もあります。けれどもそれらの苦しい経験すべてを通して神さまはわたしたちを導いてくださっていることを信じています。しかし実際になってみないとわからないというのも偽らざる思いですね。水曜日の学びの後半で、つまずきの石にならないようにとありますが、危機に対してどのように生きるかによって、あかしにもつまずきにもなることはわかります。できれば苦しみにあいませんように、そして良いあかしができるような歩みをしたいと祈るしかありません。そして「越えられない苦しみは与えない」(コリント第一10:13)という約束を信じて前進したいですね。