第4課 安河内アキラ

2016年 第4期 ヨブ記

第4課 神と人間の苦しみ

今週の聖句 ローマ1:18~20、ヨブ記12:7~10、黙示録4:11、コロサイ1:16、17、マタイ6:34、ヨブ記10:8~12、ローマ3:1~4

今週の研究  ヨブ記の主要なテーマの一つである人間の苦しみが普遍的である、ということです。それはいずれかの人や時代に限定されません。ユダヤ人であれ、異邦人であれ、私たちはみな、ヨブの苦悩、堕落した世界に生きることの苦痛を多少なりとも知っています。ヨブの苦痛がどれほど特殊であったとしても、彼は苦しみの中にある私たちを象徴しています。

火曜日:さて、ユダヤ人の言い伝えは、モーセがヨブ記をミディアンの地で書いたと教えていますが、エレン・G・ホワイトもそう教えたというのは、なんと興味深いことでしょう。「荒れ野での長年にわたる孤独は、無駄にはならなかった。モーセは彼の前に備えられた偉大な働きの準備をしていただけでなく、その間に、聖霊の導きのもとで創世記と、時の終わりまで神の民によって深い関心をもって読まれるヨブ記をも記した」(『SDA聖書注解』第3巻1140ページ、英文)。
 聖書の最初の2巻のうちの一つであるヨブ記は、人間の痛みと苦しみという普遍的な問題を扱っているのだと、この言葉は告げています。つまり神は、この問題が人類にとって大きな問題になることをご存じであり、それゆえ最初から、モーセを用いて聖書の中にヨブの物語を書かせられたのでした。神は、私たちが痛みと苦しみの中に置き去りにされたりしないこと、神がその場にいて、すべてをご存じであり、最後にはそれを正されるという希望があることを、早くから私たちに知らされたのです。

木曜日:パウロは詩編51:6〔口語訳51:4〕を引用しながら、いかに主御自身が「言葉を述べるとき、正しいとされ、裁きを受けるとき、勝利を得られる」(ローマ3:4)かについて述べています。ここで提示されている考えは、聖書のさまざまな場所に登場する一つの主題で、神義論と呼ばれています。悪事(災い)が存在するにもかかわらず神が善であると理解しようとする問題です。これは、私たちが今週ずっと研究してきた昔からの問題です。実際、大争闘は、それ自体がまさに神義論です。人類の前で、天使たちの前で、全宇宙の前で、この世に広がる悪にもかかわらず、神が善であることが明らかにされます。

金曜日:これもまた、ヨブ自身が格闘した問題です。すでに触れたように、彼は神の存在を決して疑いませんでした。彼が苦しんでいたのは、神の御品性に関する問題でした。ヨブはそれまで忠実に主に仕えていました。彼は「良い」人でした。それゆえに彼は、自分の身に起こっていたことを受けるいわれがないと知っていました。従って彼は、神を信じる多くの人が悲劇のさなかにあって抱く問い―「神とは実際にどのような方なのか」―を問うていました。そしてこれこそが、まさに大争闘ではないでしょうか。この問題は、神の存在に関する問題ではなく、神の御品性に関する問題です。そして、大争闘を解決するうえで多くのことが関わりますが、十字架上のイエスの死、つまり神の御子が「御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださった」(エフェソ5:2)こと以上に私たちの創造主の真の御品性を宇宙に啓示したものは、間違いなくありません。キリストの十字架は、神が、私たちの信頼しうる神であることを示しています。

 今週の暗唱聖句は「明日のことを思いわずらうな」という有名な聖句です。これは必要以上に、また悩んでもどうしようもないことを思いわずらっても仕方がないことを教えています。たとえば行事が控えていて、精一杯準備をしても天気だけはどうしようもありません。空を見上げながら祈ったことは何回もあるでしょうが、わたしたちができることはそこまでです。人生にはいろいろな悩みが尽きませんね。もちろんそれに対応するのは自分自身ですが、あとは時がやって来ないと、できないことが多々あります。
聖書は神さまを信じたら悩みがなくなるとは教えていません。けれども、その苦しんでいる時に、神さまはともにいてくださると約束しています。「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます」(詩篇23:4)
 ご家族が病と闘っている方から「今期の学びがヨブ記で、苦しんでいるわたしたちに神さまが語りかけてくださっているようです。」と話されていました。苦しみの中にあるわたしとともに神さまがいてくださる、これがわたしたちの救いなのではないでしょうか。