第5課 安河内アキラ

2016年 第4期 ヨブ記

第5課 その日を呪いなさい

今週の聖句 ヨブ記3:1~10、ヨハネ11:11~14、ヨブ記6:1~3、7:1~11、ヨブ記7:17~21、詩編8:5~7〔口語訳8:4~6〕

今週の研究   私たちがヨブ記の研究を続ける際に、わが身をヨブの立場に置いてみましょう。そうすることで、彼が味わっていた戸惑い、怒り、悲しみをよりよく理解できるからです。しかも、ある意味において、それはさほど難しいことではないに違いありません。私たちが体験してきたことはヨブが体験したことではありませんが、堕落した世界に肉体を持って生まれた私たちの間に、悲劇や苦しみがもたらす当惑を多少なりとも味わったことのない人がいるでしょうか。とりわけ、私たちが忠実に主に仕え、主の目に正しいことを行おうと努めているときにです。

火曜日:ヨブ記6:2、3を読んでください。この比喩は、ヨブが彼の苦しみをどのように受け止めているかを伝えています。もし海辺のすべての砂を天秤の片側に載せ、彼の「苦悩」と「(彼を)滅ぼそうとするもの」をもう一方に載せるなら、彼の苦しみのほうがすべての砂よりも重いだろう、といいます。
 ヨブの苦痛は、彼にとってそれほど現実的でした。そして、これはヨブの苦痛だけであって、ほかの人の苦痛ではありません。私たちは時折、「人類の苦しみの総和」といった考えを耳にします。しかし実のところ、これは真理をあらわしていません。私たちは集団で苦しむわけではないからです。私たちはだれかの苦痛を感じるのではなく、自分自身の苦痛を感じます。私たちは自分の苦痛、自分の苦しみしかわかりません。しかし、ヨブの苦痛がどれほど激しいものであったにしろ、それは、これまでにだれかが感じえた苦痛を超えるものではありませんでした。「あなたの苦痛がわかりますよ」と、善意からだれかに言う人がいるかもしれません。しかし、彼らにはわかりません。わかりえないのです。彼らが感じるのは、だれかの苦しみに対して生じる彼ら自身の苦痛です。しかし、それは常に彼ら自身の苦痛でしかなく、ほかの人の苦痛ではありません。

水曜日:メトシェラが友人にこぼします。「私たちはたかだか800年か900年生きたら死ぬんだ。永遠に比べたら、800年や900年なんて何だろうか」(創5章参照)。
 数百年間生きるというのはどんな感じなのか、私たちには想像しがたいのですが(メトシェラは187歳のときに息子レメクをもうけ、その後782年生きました)、ノアの大洪水以前の人たちでさえ、死という現実に直面したとき、彼らにとっての人生の短さを嘆いたに違いありません。
 ヨブ記7:1~11を読んでください(詩編39:6〔口語訳39:5〕、ヤコブ4:14も参照)。私たちは、ヨブが死によってもたらされるだろう憩いと安息を求めているところを見たばかりです。今度は、人生がいかに速く過ぎ去るかを、彼は嘆いています。要するに彼が言っているのは、人生は厳しく、労苦と苦痛であふれていて、やがて私たちは死ぬのだ、ということです。ここには、私たちがしばしば抱えている難しい問題があります。私たちは、人生が悲しく、惨めであっても、いかに人生が速く過ぎ去り、はかないかを嘆きます。

木曜日:再び、私たちはわが身をヨブの立場に置く必要があります。「なぜ神はこのようなことを私になさっているのか。なぜ神は、このようなことが私に起こるのを許しておられるのか」。ヨブは全体像を見ていませんでした。どうしてそんなことができるでしょうか。彼は周囲や自分の身に起きたことしか知らず、そのどれもまったく理解できません。同様の状況を体験したことのない人がいるでしょうか。
 いずれにしても、「人間とは何なのか」という疑問は、私たちが問いうる最も重要な疑問の一つです。私たちは何者なのでしょうか。私たちはなぜここにいるのでしょうか。私たちの人生の意味や目的は何でしょうか。ヨブの場合、彼は、神が彼に「狙いを定め」られた、と信じているので、「なぜ神は私を悩ますのだろうか」といぶかしんでいます。神は偉大であり、その被造世界は広大です。一体全体、なぜ神はヨブに対処する必要があるのでしょうか。そもそも、なぜ神は私たちのだれかのことで頭を悩ます必要があるのでしょうか。

 今週の学びは「人間とは何か」と問うているのでしょう。顧みれば、わたしもそれなりの年齢になり経験を積んできましたが、残念ながら体は動かず体力も衰えてしまっています。今、青年時代の若さがあれば、どんなに多くの仕事ができるだろうと考えてしまいます。水曜日の学びでメトシェラの言葉が出てきます。ノアの洪水以前の人たちのように900年生きたら、おそらくわたしの年齢ではまだまだ青年だったのでしょう。200歳くらいでも子どもが与えられているのですから。この時代のような若さと経験があったらどれだけのことができたでしょう。そんなことを考えますが、やがて彼らも死を迎えていました。
 少し本論を離れますが、創世記の系図を表にしてみると、メトシェラが死んだ年にノアの洪水が起こっていることがわかります。神さまは、高齢のメトシェラを洪水の前に休ませてくださったのでしょうね。そのような中にも神さまの愛が見えます。
生きて行くと病や苦しみを前に何もできない自らの弱さ、わかっていてもまちがいを犯してしまう弱さなどを見せつけられます。すると人間とは何かと問いたくなります。この想いは一生続くのでしょうね。そして少しうまく行くと、この想いを忘れて高ぶってしまったり、これが自分の姿なのです。こんなわたしのために、イエスさまは十字架に架かってくださった。ここに神さまの深い愛がありますね。