第6課 安河内アキラ

2016年 第4期 ヨブ記

第6課 呪いは原因不明なのか

今週の聖句 詩編119:65~72、ヨブ記2:11~13、ヨブ記4:1~21、ローマ3:19、20、Ⅰコリント3:19、ヘブライ12:5、マタイ7:1

今週の研究   実際、ヨブ記の大部分は、ヨブとこのような人たちとの対話で占められています。彼らはみな、しばしば合点がいかないように思えること―愛情深く、力強く、思いやりのある神によって創造されたこの世界で、人間の苦しみや悲劇が果てしなく続くこと―の意味を理解しようとしています。

日曜日:最初の2章のあと、ヨブ記の大部分は、テレビ業界で「トーキング・ヘッズ」と呼ばれるもの(カメラに向かって話し続ける人たち)、つまり対話で構成されています。ここでの「トーキング・ヘッズ」は、ヨブと、人生の重大な問題(神学、苦悩、哲学、信仰、生、死)を話し合うためにやって来た男性たちです。
 ヨブの身に起こったことを考えるなら、当然でしょう。生活のありふれた出来事、日々をただ生きることにとらわれ、何が重大で重要な問題であるかを忘れてしまうことは簡単です。私たち自身の災難であれ、だれかの災難であれ、災難ほど私たちを霊的無気力から揺すり起こし、重要な疑問を私たちに問いかけるものはほかにありません。

木曜日:実はエリファズや、ヨブを含むほかの人たちが考えていたことよりもはるかに多くのことが、ここでは起きていました。それゆえ、エリファズが判断を急いだことは、彼の神学がすべて正しかったのに、彼の行動は正しいとは言えませんでした。私たちがだれかを、とりわけ罪を犯したと思われる人を扱うとき、次の聖句を念頭にとどめておく必要があります(マタ7:1、2、ローマ2:1~3、Ⅰコリ4:5)。
 ヨブは全人類の象徴として存在しています。なぜなら、私たちはみな大争闘に巻き込まれており、その中で苦しんでいるからです。そして私たちはみな、ある時点で、小言ではなく、思いやりと同情を必要とします。確かに、意見されるべき時と場所もあります。しかし、ある人が人生を台なしにし、子どもを亡くし、体中を皮膚病で覆われ、山のような灰の上に座っているときは、ふさわしい時ではありません。

金曜日:私たちがエリファズに見るものは、イエスに対する一部の律法学者やファリサイ派の人々の態度の中にもあらわれています。この人たちは、「忠実」で信心深くありたいという願いにとらわれ、主が安息日になさったいやし(マタイ12章参照)に対する彼らの怒りのほうが、その病人がいやされ、苦しみから解放されたという喜びに勝ってしまいました。
 次の聖句のキリストの言葉が、どれだけ特定のことに関するものであろうと、その原則は、神を愛し、神に熱い思いを抱いている私たちが常に覚えておく必要のあるものです。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが」(マタ23:23)。

 わたしたちのまわりで、いろいろな悲しいことや辛いことが残念ながら起こりますね。苦しんでいる方を何とか励ましたいと、いろいろなことをしようとしてきました。ヨブ記の大部分も、ヨブとそのような人との対話です。痛みの中にいる方からすれば、わかりきったようなことを言われても、それがたとえ事実であったとしても、その言葉が励ましになるとはかぎりません。
 ある時、「死にたい」と訴える方と対応をしなければなりませんでした。その方に「死んではいけません。いのちは大切で意味がある」と語ってもわかっていただけないでしょう。どうしたら良いのかカウンセリングの先生にうかがったら、「死にたいくらい辛いんですね」と言いながら寄り添ってくださいと教えられました。
 先週と今週の学びで、痛みや苦しみにある方々と同じようにはなれませんが、その思いに近づこうとすることができると教えていました。苦しんでいる方々に対して、わたしたちがどのように立つか、ここが問われているのではないでしょうか。ヨブの友人のように正しいことを言っていっていてもそれが、人を活かすことにならないことがあります。このあたりをヨブ記の問答からわたしたちに語られているのではないでしょうか。