第6課 張田佐喜夫

2016年 第4期 ヨブ記

第6課 呪いは原因不明なのか

はじめに
 苦しみの中にあり失望している人に、あなたの災難は「自業自得」だと理解させようとしても、それは、必ずしも、その人を力づける事にはなりません。苦難の時に神が、人間にどう関わっておられるかを理解する事は、大きな慰めとなります。

日曜日  重大な疑問
 ヨブ記の2章では、神と天使たちの世界が地球に住む人たちとの世界と密接に繫がっている事が分かります。神は何故、サタンの存在をお許しになるのでしょうか?「神がサタンの存在を許しておられるのは、サタンがその品性を明らかにするため、すなわち彼が天の宇宙の前に、またきよい諸世界と堕落した世界の前に立って、偽り者、兄弟を訴える者、本当の殺人者としてのその真の特性をあらわすようになるためである」『牧師へのあかし』412p。大争闘の中で、神は私達を正しく導こうとしておられます。「災難ほどわたしたちを霊的無気力から揺り起こし、重要な疑問をわたしたちに問いかけるものはほかに」(40p)ない。あるご婦人が言われました、「現実はよくない。しかし奇跡的な神の導きの中で自分が生かされていると感じる時、将来への希望を持つ事が出来る。生きてみようと……。」やはり、人は主の導きによって生かされているのです。

月曜日  罪のない人がいつ滅びたのか
 罪のない人が滅びる事は決して神のみ旨ではありません。しかし何故、不条理な災いを神は許されるのでしょうか。多くの人の苦しみは、神とサタンとの戦いという背景においてのみ理解する事が出来ます。サタンと罪は全ての災いの原因です。しかし、神はサタンの行動に制限を設けておられます。愛する者たちのために、悪から善へ導きだすために、サタンの働きを支配しておられます。しかし、ヨブの様な現実の中にある人に、慰める言葉も持ち得ないのが私達です。祈りつつ、主からみ言葉をいただきたいものです。

火曜日  人と造り主
 エリファズは幻を見ます。「忍び寄る言葉があり」(4:12)とありますが、幻は全てが神からの幻とは限りません。「人が神より正しくありえようか。造り主より清くありえようか。」(4:17)との問いかけの言葉からは、エリファズの主張は全く間違っていたわけではないことが分かります。彼は神のご品性を正しく見ています。しかしヨブは自分が神より正しいと言っているのではなく、自分がいかに惨めで、いかに苦しんでいるかを言っているのです。身に覚えのないことを指摘されヨブはさらに苦しむことになります。どうやらエリファズの指摘は、ヨブにとっては的外れなものでした。無実のヨブの苦しみの原因はサタンが引き起こしたことであり、神がヨブの罪のゆえに彼を災いに遭わせた事実はありません。
 確かに神の前に正しいとされるのは義とされた人だけです。神の前に正しい人は一人もいません。それでは、人は一人も救われないのでしょうか。信仰によってイエス・キリストを救い主として受け入れることで、神から義とされます(ローマ3:9~31)。
 
水曜日  愚か者が根を張る
 エリファズは、問題の原因を指摘しても、苦しむヨブの慰めにはならないことを理解していません。罪とは、こういうものだと理解しても罪が赦されないように、災いの原因が、この事以外にないと理解しても、人間の心は癒されることはありません。災いは悪人だけに起こるというエリファズの主張は因果応報であり呪いだと言うのです。私達はヨブの友人のように、人をさばく事があります。今までに、試練に遭っている人に対して、「神はあなたに何かを教えようとしている。」とか、言わなかったでしょうか。聖書は、良い報いと悪に対しては滅ぼす事が書かれてあります。しかし必ずしも、人の幸、不幸によって、私達はその人の品性を判断できるものではありません。

木曜日  判断を急ぐ
 エリファズはヨブのことを心配するあまりに、自分の神学をヨブに伝えます。聖書的には間違っていないように思えます。子どもを失い、財産も無くし、皮膚病を患い、灰をかぶり座っているこのヨブの姿を見たエリファズは、早くこの状態から助け出さないと、と、思ったことでしょう。心配のあまりに事を急いだが為に、この様な場合に言ってはならないことを語ったようです。「人間は罪の傾向により、生まれれば必ず苦しむ。ヨブは健康と財産を回復するために神様に助けを求めるべきだ。ヨブは試練に遭わせてくださる神様に感謝するべきだ。」大争闘を知らない彼の神についての理解は、真理と誤りが混じっているものでした。神様を誤って理解する時、苦しんでいる隣人に必要な同情を表す事が出来なくなります。