第8課 安河内アキラ

2016年 第4期 ヨブ記

第8課 罪のない者の血

今週の聖句 ヨブ記10章、イザヤ53:6、ローマ3:10~20、ヨブ記15:14~16、ヨブ記1:18~20、マタイ6:34

今週の研究   ヨブは、与えられた答えがどれも目の前の現実に合致しないことを知っていました。ですから、次のことが問題でした。「私たちは、しばしば理にかなっていないように思えることの理を説明する答えを、いかに見いだしたらよいのか」。今週も私たちは探求し続けます。

日曜日:エリファズ、ビルダド、ツォファルの言うことには、一理ありました―神は悪を罰されます。しかし残念なことに、その「一理」はヨブの状況には当てはまりませんでした。ヨブの苦しみは、報復的な罰の事例ではなかったからです。神は、のちにコラ、ダタン、アビラムになさったように、罪のゆえにヨブを罰しておられたのではありません。ヨブはまた、しばしばそういう場合があるように、まいたものを刈り取っていたのでもありませんでした。違います。ヨブは正しい人でした。神御自身がそう言っておられます(ヨブ1:8)。ですから、ヨブは彼の身に起こったことを受けるいわれもありませんでしたし、彼はそのことを知っていました。そのことが、彼の不平を激しく、苦々しいものにしました。
 ここには理解しがたい皮肉があります。ヨブは、彼の友人たちが言ったこととは違い、自分の罪のゆえに苦しんでいたのではありません。ヨブ記そのものが正反対のことを教えています。ヨブがここで苦しんでいるのは、まさに彼が忠実であったからでした。ヨブ記の最初の2章がその点をはっきり述べています。ヨブは、そのことが原因だったとは知る由もありませんでしたし、たとえ知ったとしても、恐らく彼の苦しみと不満は一層深まるだけだったでしょう。

火曜日:しかし、苦しみに関するさらに深い問題があります。苦しみから何も良いものが得られないように思えるときは、どうでしょうか。たとえば〔事故などで〕即死して、品性の中の純金から不純物を取り除いてもらえない人たち。真の神や、神に関することをまったく知らずに苦しむ人たち。苦しみによって神に恨みを抱き、怒り、憎しみを持っただけの人は、どうでしょうか。私たちはこういった例を無視したり、単純な公式に押し込んだりすることはできません。なぜなら私たちは、ヨブを非難した人たちと同様の過ちを犯すことになるからです。
 ヨブと、彼を非難する人たちがどんな教訓を学び、またサタンが、ヨブの忠実さによってどんな敗北を味わうにしろ、これらのほかの人たちの運命はまったく公平とは思えません。実際、こういった出来事は、公平でも正しくもありません。
 私たちは今日、同じような疑問に直面します。6歳の子ががんで死ぬということ、20歳の女子大生が車から引きずり出されて暴行を受けるということ、3人の子どもを持つ35歳の母親が交通事故で死ぬというこれらは、公平でしょうか。2011年の東日本大震災(津波)で死んだ約1万9000人の日本人は、どうでしょうか。1万9000人全員が、罰として受けなければならない罪を何か犯したのでしょうか。これらは難しい問題です。

木曜日:ヨブ記の最初のほうの章が示していたように、また聖書がほかの箇所で明らかにしているように、サタンは実在するものであり、直接的または間接的に、多くの苦しみの原因です。今期の研究で先に触れたように(第2課参照)、大争闘という枠組みは、この世における災いの現実を論じるうえでとても役に立ちます。
 しかしそれでも、なぜそういうことが起きるのかを理解することは、ときとして困難です。時折(実際には、多くの場合)、物事はまったく理にかなっていません。私たちに理解できないこと、私たちが神の善意を信じることを学ぶ必要のある物事が起きるのは、そういうときです。答えがすぐにわからないときや、身の回りの災いや苦しみから何も良いものが生じたと思えないときでさえ、私たちは神を信頼することを学ぶ必要があります。

 今週の暗唱聖句、ヘブライ11:1を初めて新共同訳で読んだ時に、みことばの深さが伝わってきたことを覚えています。信仰はこれからのことを望むだけでなく、過去の事実を信じることとも教えられました。天地創造から始まり、今日までの聖書に記録されている様々なできごとを実際に見ていた人はだれも残っていません。だからこそ、その事実は信じることしかできません。それは過去の歴史に関してすべて同じではないでしょうか。
 そして今週の学びでは、現実に起きている苦しいことにおいても、「それでも神さまが愛してくださっている」ことを信じるのが信仰であると教えています。本文の火曜日にも書かれていますが、大災害に巻き込まれてお亡くなりになった方々のことを、わたしたちはどのように考えたら良いのでしょう。災害場所へ行き、神さまは愛の神さまであると話しても、現地の人々に受け入れてもらえるでしょうか。
 わたしたちも社会福祉法人として何かできることが無いだろうかと考えて、東日本大震災の被災地で働いていたADRA JAPANにお手伝いさせていただき、微力ですが支援をさせていただきました。わたしたちができることは、このように被災された方々に寄り添ってお支えし続けることではないでしょうか。そのようなわけで今でも小さなつながりを続けています。「それでも神さまは愛してくださっている」ことを、語るのではなく、まず小さなあたたかな行為で伝え続けて行く、これがわたしたちにできることではないでしょうか。