第9課 安河内アキラ

2016年 第4期 ヨブ記

第9課 希望の兆し

今週の聖句 箴言17:28、ヨブ記13:1~15、ヤコブ2:20~22、Ⅰコリント15:11~20、Ⅰペトロ1:18~20、創世記22:8

今週の研究   私たちは今週、ヨブ記における苦しみの問題を研究し続けながら、ヨブが、身に降りかかった不公平で、理にかなわず、不当な悲劇のただ中にもあっても、希望の言葉を口にすることができたことを知るでしょう。その希望とは何だったのでしょうか。そしてその希望は、私たちも望みを置くことのできるどんなことを告げていますか。

日曜日:ヨブ記13:1~14を読んでください。ヨブ記2章で読んだように、この友人たちは、やって来てヨブを初めて見たとき、7日間、彼に何も話しかけませんでした。最終的に彼らの口から出てきた言葉を考えると、話しかけないことが最善の接し方だったのかもしれません。ヨブが考えたのは、まさにそういうことでした。
 この友人たちは単に不正を語っているだけでなく、神について不正を語っている、とヨブが言っていることにも注目してください(ヨブ記の終わりに起こったことを踏まえると、これは興味深い点です〔ヨブ42:7参照〕)。確かに、間違ったことを何か言うよりは、黙っているほうが賢明でしょう(私たちの中に、それがいかに正しいかを体験したことのない人がいるでしょうか)

月曜日:今期の研究を始めたとき、私たちはまずヨブ記の結末を扱い、ヨブにとって事態が最終的にどう好転したのかを見ました。ひどい苦しみの中にあっても、ヨブが希望を持っていたのを、私たちは目にしました。実際、私たちは今に生き、この書全体と聖書の結末を知っているので、ヨブが想像しえた以上のずっと多くの希望を持っていることがわかります。
 しかしヨブは、子どもたちが死んで、財産が奪われ、健康が損なわれたとき、事態がどう展開するのかを知りませんでした。彼が知っていたのは、人生が急に暗転してしまったということだけでした。
 でもヨブは、生まれてこなければよかった、母親の胎から墓へ運ばれていればよかったと嘆きつつも、依然として希望を表しており、その希望はヨブを今ひどく不公正に扱っていると思っている同じ神の中にありました。
 人間的な観点からすれば、ヨブには何かを期待する理由がありませんでした。しかし実際のところ、ヨブは人間的な観点から見ていたのではありませんでした。もし人間的に見ていたなら、彼はどんな希望を持つことができたでしょうか。そうではなく、ヨブがこのような驚くべき信仰と希望のあかしをしたとき、彼は神を信頼することにおいてそうしたのです。

火曜日:「このわたしをこそ神は救ってくださるべきではないか。神を無視する者なら御前に出るはずはないではないか」(ヨブ13:16)。なんと興味深い聖句が昨日読んだ聖句のすぐあとに続いていることでしょう。たとえヨブが死なねばならないとしても、たとえ神が彼の命を奪われたとしても、ヨブは神の救いを信じているといいます。見方によっては、それは奇妙な対比であり、別の見方をすれば、完全につじつまが合っています。結局のところ、救いは死からの解放以外の何でしょうか。死は、少なくとも救われた者たちにとって、永遠の命へ復活する前の短い休息の時、一瞬の眠り以外の何でしょうか。永遠の命へ復活するというこの希望は、数千年間にわたって、すべての神の民の最大の希望ではないでしょうか。それは、ヨブの希望でもありました。

 今週の学びのヨブ記13:15,16の二つの聖句は、気づいていませんでしたね。苦しみの中で希望を模索するヨブの姿が伝わってきます。だれでも、どんな時でも希望が必要です。そこで希望を見つけられねば絶望しかありません。ヨブもどん底にあって、神さまの救いを求めました。
 聖書は希望の言葉が散りばめられています。今週の学びでも、いろいろな希望のみことばが書かれていますね。苦しい時にこそ、みことばで神さまの導きを思い起こして「だからわたしもがんばろう!」と前進ができるのです。最近わたしが励まされたのは「さあ、これからベテルに上ろう。わたしはその地に、苦難の時わたしに答え、旅の間わたしと共にいてくださった神のために祭壇を造る」(創世記35:3)でした。この言葉はヤコブがカナンの地に戻ってきて定住する段階で、いろいろな苦労がありましたが、人生の旅を導かれた神さまを信じて苦しいけれど前進しようとしている姿です。
 みなさまの中で、苦しみにある時こそ、みことばから光を受けてください。前に進むことはあなたしかできませんが、神さまは必ず励ましと導きを与えてくださいます。だからこそ毎日、みことばから神さまの声を聴くことが大切なのです。