第9課 朴 哲漢

2016年 第4期 ヨブ記

第9課 希望の兆し

安息日午後 ヨブが、身に降りかかった不公平で、理にかなわず、不当な悲劇のただ中にあっても、もっていた希望とは何だったでしょうか?

日曜日  偽りをもってうわべを繕う者 
 ヨブの友人たちは因果応報、自業自得を繰り返し言いながら、ヨブに早く悔い改めるように勧めましたが、ヨブは自分のことだけではなく、子どもたちのためにもいつもいけにえをささげた(ヨブ1:5)ので、友人たちのアドバイスの内容は合っていたかもしれませんが、ヨブには当てはまらないことでした。

月曜日  神が私を殺したとしても
 ヨブは、子どもたちが死んで、財産が奪われ、健康が損なわれたとき、事態がどう展開するのかを知りませんでした。彼が知っていたのは、人生が急に暗転してしまったということだけでした。生まれてこなければよかった、母親の胎から墓へ運ばれていればよかったと嘆きつつも、依然として希望を表しています。
 ヨブ記13:15「見よ、神が私を殺しても、私は神を待ち望(む)」(新改訳)。 Though he slay me, yet will I hope in him. (NIV) 自然災害や病気や事故で死ぬのではなく、「神が私を殺しても」、自分を殺すその神を待ち望むことができますか?ヨブの凄い信仰を見ることができます。
 人類のあけぼの(上巻)157頁には次のように書かれています。「彼らは、定められた場所で祭壇を築き、その上にたきぎを置いた。そして、アブラハムは震える声で天からの言葉を息子に知らせた。イサクは、自分の運命を知って恐れ驚いたけれども、さからわなかった。彼は逃げようと思えば、彼の運命から逃げることができた。悲しみに打ちひしがれた老人は、恐ろしい3日間の苦悩に力がつきていて、元気な若者の意志に逆らうことはできなかったことであろう。しかし、イサクは幼いときから、すぐに信頼して服従することを学んでいたから、神のみこころが知らされたとき、彼は喜んで従った。彼はアブラハムと同じ信仰を持っていたから、自分の生命を神の供え物としてささげる召しを受けたことを名誉に感じた。イサクは、父をいたわり、悲しみを軽くしようと努めた。そして、父の弱々しい手を助けて、縄で自分を祭壇に結びつけるのであった。」愛してやまない独り子を自ら殺さなければならないアブラハムと、いつも自分のことを大事にしてくれた父親が自分を殺すという信じられないことを目の前にしている若者イサク。この二人もヨブも100%神様を信頼し、本人たちはいくら考えても理解できない神様の命令に従っています。過程は本当に厳しい状況でしたが幸いなことに3人ともハッピーエンドです。それを見てとても臆病で信仰が弱い私もヨブやアブラハムやイサクのように生きていきたいという新たな決心ができます。

火曜日  希望の兆し
 仏教では「生老病死」と言い、死が最後ですが、永遠の命を持っている神様を信じ受け容れる誰でも「生老病死」で終わるのではなく、「生老病死」の後、「生」がまたやってきます。「生老病死」はこの世の中での経験であり、最後の「生」は「人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである。(黙21:4)」の永遠の命です。その日を待ち望む人はどんな苦しみでも二度と経験できない思い出だと考え、忍耐あるいは楽しむことさえもできるのではないでしょうか?

水曜日  この世が始まる前の希望
 水曜日の内容を読んでみるとこの世が始まる前から、神様が私たちを愛しておられ、救いの道もそなえておられることが書かれています。話は変わりますが、親は子どもをいつから大事に思い(愛し)ますか?
① 生まれてから  ② 親にお小遣いをくれる時から ③ 親孝行をしてから ④ お腹の中にいるときから
 罪深い人間でさえも、赤ちゃんがまだ生まれてないお腹の中にいる時から我が子を大事に思う(愛する)のですから、神様はなおさらでしょう。神様が永遠の昔から2016年11月にこの地球で過ごす私たちをご覧になりとても喜んだでしょう。また、私たちがOKさえすれば、永遠の国に入ることが出来る道もご準備下さいました。

木曜日  希望の例
 11の聖句が紹介されていますが、下から3番目のダニエル12:1、2が私には浮き彫りにされます。「その時あなたの民を守っている大いなる君ミカエルが立ちあがります。」ミカエルはイエス様の別の名前で「だれが神と等しいのか?」という意味であり、イザヤ14:13「わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき」のサタンの反逆に対する御返事です。私たちには恐ろしいサタンの誘惑や攻撃が続きますが、御国に入る日までイエス様が私たちをいつも守ってくださいます。