第11課 張田佐喜夫

2017年 第1期 聖霊と霊性

第11課 聖霊を悲しませ、聖霊に逆らう

はじめに
 「この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。」(エフェソ1:14)私たちの良心や人の評価からではなく、永遠の贖いは、聖霊が保証して下さいます。
 また、真理はキリストの内にあると知った私たちは、バプテスマを受け「古い人を脱ぎ捨て」、今は「神にかたどって造られた新しい人を身に着け」る事を選んでいます。この選択によりキリストは、私たちを益々祝福し豊かなものとするために、聖霊を遣わし強めて下さいます。にもかかわらず、私たちは聖霊を悲しませ、逆らう事もあるのです。
 聖霊が一番悲しむことは、私たちがキリスト愛から離れ、赦し合う事から離れてしまった時です。これは聖霊に逆らう事をも意味します。何故なら、この様な時には聖霊の宮であるはずの私たちの内に、聖霊がとどまる事が出来ないからです。「“霊”に対する冒瀆は赦されない」(マタイ12:31)とあり、聖霊はキリストからの私たちへの完全な賜物です。神の大きな愛は私たちに聖霊を与えて下さる事です。私たちは聖霊によって、救いの確証を与えられ、清められ、神の子とされている事の確信を実感する事が出来ます。誰も聖霊を冒涜しようと思う人はいないでしょう。しかし、聖霊を妨げる行為は聖霊の賜物を冒瀆し、聖霊を悲しませ、聖霊に逆らう事は滅びの道を歩むことになります。

日曜日 聖霊に逆らう
 私たちは聖霊に逆らう事が出来るのでしょうか?古代イスラエルの人々は、聖霊を通して神の 用いられた人々の言葉と神の導きに聞き従わなかった時のような頑な心によって、聖霊に逆らったことになりました。愛であられる神は、私たちに人格(自由意志)を与え決して強制的に聖霊の導きを受け入れるようにとはなさいません。キリストから離れようとする時でさえ、私たちの選択を尊重されます。「神は私たちを、命か死か、善か悪かを選ぶ道徳的選択能力を持つ自由な存在としてお造りになりました。」(75p)

月・火曜日 聖霊を悲しませる
 聖霊の大切な働きの一つに、罪を私たちに気付かせる働きがあります。聖霊は私たちをキリストに結びつけて下さいますが、日々の生活の中で、キリストの赦しと清めの実現へとも導きます。キリストを受け入れ、新しく生まれかわったはずの私たちが、古いままの命を生きようとする時、聖霊は悲しみます。聖霊は私たちがキリストの体の一部として働くことに関心があります。また、聖霊は私たちクリスチャンが御霊の実と賜物を用いず、キリストの品性が私たちの内に現れていないような時に悲しまれます。人との交わりの中で、個人的に、教会で、どのような心をもって交わるかに聖霊は強い関心があります。

水曜日 聖霊を消す
 罪の恐ろしさを、聖霊は私たちに気付かせ罪に打ち勝つ力を示し、清めへと導こうとされます。私たちが聖霊の助けを切に祈り求めるならば、内なるキリストとして内住され、その力によって良き生き方に変える事が出来るようにして下さいます。変えられてキリストの平安の中にあるならば、キリストの品性を映し出し、隣人の魂のために感化を与えようとします。しかし、もし聖霊の恵みを無にする時があるならば、私たちが聖霊を消すことになります。聖霊に燃やされた内なるキリストの火を消さないようにしたいものです。

木曜日 聖霊に対する冒涜
 マタイ12:31〜32に「人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦される」「人の子に言い逆らう者は赦される」とありますが、悔い改めればという事です。しかし、この様な条件を付けても「“霊”に対する冒瀆は赦されない」「この世でも後の世でも赦されない」とイエスは言われます。ハッキリと表されている聖霊の働きを、故意に冒瀆する時、赦されません。また悔い改めへと導く聖霊を故意に拒否するならば、いつ迄も悔い改めへと、決心しないので、結局それが続く限り、キリストから永久に赦しを頂く事は出来ないのです。