第12課 安河内アキラ

2017年 第1期 聖霊と霊性

第12課 聖霊の働き

今週の聖句  ヨハネ16:8~11、ローマ5:10、ヘブライ4:15、16Ⅰペトロ5:8、9、Ⅰヨハネ5:12、13、詩編31:25〔口語訳31:24〕

今週の研究   聖霊と霊性に関する今期の学びが終わりに近づいているので、これまで注目してこなかった聖霊の決定的な別の働きに、私たちは目を向けます。
 イエスによれば、聖霊は「パラクレートス」、すなわち「助け主」、「慰め主」、私たちの執り成しをする「仲裁者」です。同時にイエスは、この「仲裁者」がなす働きについても宣言なさいました。彼は、罪について、義について、また裁きについて、この世の誤りを明らかにします(ヨハ16:8)。

日曜日:聖霊と霊性に関する今期の学びが終わりに近づいているので、これまで注目してこなかった聖霊の決定的な別の働きに、私たちは目を向けます。
 イエスによれば、聖霊は「パラクレートス」、すなわち「助け主」、「慰め主」、私たちの執り成しをする「仲裁者」です。同時にイエスは、この「仲裁者」がなす働きについても宣言なさいました。彼は、罪について、義について、また裁きについて、この世の誤りを明らかにします(ヨハ16:8)。

火曜日:ヨハネ16:8~11を読んでください。誤りを明らかにする聖霊の大事な働きの中で最後に残っているのは、裁きについて誤りを明らかにすることです。ここは、先の聖句に基づく説教の多くが、間違った方向、有害な方向に進むように思えるところです。しばしば罪と義の議論は、多くの自称クリスチャンが、キリストを拒否する者たちの裁きについて警告を発することにつながるように思えます。彼らは(しばしば、脅すように)そうすることで、未来に待ち受けている裁きを罪人たちに警告したいと考えるのです。
 そのような裁きは実際に起きますが、イエスがヨハネ16:11で語っておられるのは、その裁きではありません。使用されている言葉から、ヨハネ12:48と同様、イエスは未来の裁きについて語っておられるのではないことがわかります。そうではなく、イエスがここで言及しておられる裁きとは、サタンがカルバリーにおいてすでに裁かれたという良き知らせです。真理の大敵である悪魔は、天から与えられた時間を生きているにすぎません。裁きはやって来ますが、ここでの焦点は、この世の支配者がすでに裁かれていること(ヨハ12:31)を認識することなのです。

木曜日:聖霊は、私たちの心の中に神の愛を注ぎ出された方です。聖霊は私たちを神に結びつけ、神の愛が私たちに内住するようにしてくださいます。神の不動、不変の愛は、私たちの希望の理由であり、根拠です。愛がなければ、希望はありません。愛だけが希望を生み出します。神の愛は神の誠実さと結びついているので、神が再びおいでになり、私たちを神のおられる場所に連れて行ってくださるというすばらしい希望が私たちにはあるのです。
 しかし、希望を持っていることと楽観的であることとは、どこか違います。楽天家は、すべて(天気、経済、学校の成績、家計など)が良くなると考えます。一方、希望は盲目的な楽観ではありません。むしろ希望は、神の誠実さと、過去における神の約束に根差しています。希望は、神が御自分の誠実さと真実のゆえに語られたことを成就なさる、と信じます。神は、御自分が信頼できる者であり、揺るがないことを証明してこられました。神の不動と真実は、私たちの希望の土台です。
 私たちの罪のために死なれたイエスとその十字架は、私たちの神が実際にどのような方であるかを、私たちと宇宙とに比類なく啓示するものです。それゆえ、広大な宇宙の中の堕落した一時的な存在である私たちは、自分自身や、自分が成し遂げた「偉大な」ことの中にではなく、私たちの神の中に、つまり十字架上で御自分を啓示された神の中に、希望を見いだすことができるのです。

木曜日:マルコ3:28、29、ルカ12:10、マタイ12:31、32を読んでください。聖霊に対する冒瀆ほど、クリスチャンの間に大きな疑念と苦悩を引き起こすとともに、誤解されてきた罪はありません。ある人たちは、イエスが著しく重大な特定の罪を想定しておられたのだ、と考えています。しかし私たちは、ある罪がほかの罪よりも大きな結果を招く可能性があるとしても、神にとっては、あらゆる罪が憎むべきものであることを思い出すべきです。イエスは赦されない罪について語られたとき、どういうことを意味しておられたのでしょうか。
 実際のところ、これらの聖句のどれ一つとして、この罪は赦されえない、とは言っていません。ただ、赦されないだろう、と言っているのです。思い出してください。聖霊の働きは、罪人に罪の自覚をもたらし、罪を赦す唯一の方であるイエスを受け入れたいという願いを、彼らの内に呼び覚ますことです。それゆえ、聖霊に対する冒瀆とは、イエスの救済の働きを意図的、継続的に拒絶することとして理解する必要があります。そのような冒瀆が生じるのは、キリストと彼の救いや恵みに対する聖霊のあかしを、人が故意に、しかもかたくなに拒むときです。

 今期の学びは12課で終わりです。一週短かったためか、とても早く終わってしまったように思えてなりません。

 今週の学びは「助け主」、「慰め主」、そして「仲裁者」としての聖霊の働きについて学びます。聖霊は、わたしたちにも告発者ではなく仲裁者として働くように語りかけてくださるのです。それは社会のやぶれを繕う者、失われた者を救う働きになるのかもしれません。

 日曜日と月曜日の引用文をご覧ください。神さまはわたしたちにみなさまが幸せに歩めるように仲裁者として役割を果たすように求めています。また裁きについても、裁きが近いからと迫るのではなく、神さまが罪を裁かれることによって永遠の救いが完成することを伝えて行かねばならないのです。

 そして木曜日の引用文には、ほんとうに希望について書かれています。ほんとうの希望は楽天的になることではありません。わたしたちのこれからの道に何が起こるかわかりません。それらすべてを神さまが最善に導いてくださる、この希望に信頼して歩んで行くのが、ほんとうの希望なのです。

 今期の学びは、どの引用文を選ぼうか迷ってしまうことが多々ありました。それだけ大切なことが多く書かれていました。金曜日の本文には、今期の学んだ聖霊の働きについて簡潔にまとめてあります。ぜひそこはお読みになってください。