第3課 安河内アキラ

2017年 第1期 聖霊と霊性

第3課 聖霊の神性

今週の聖句  使徒言行録5:1~4、Ⅰコリント2:10、11、イザヤ63:10~14、テトス3:4~6、ローマ8:11、Ⅰペトロ1:2

今週の研究  聖霊の神性について学ぶには、謙虚で素直な態度が求められます。私たちは神に関する人間の推論を基準にして、聖霊を理解すべきではありません。そうではなく、私たちは、聖書が主張していることを―たとえそれらの概念の中に、十分に理解しがたいものがあるとしても―受け入れ、公言する必要があります。

月曜日:聖霊がおられることは、神がおられることなのです。もし私が神の霊のおられない場所へ逃れることができないのなら、神の霊は遍在されるのです(詩編139:7と比較)。
 聖霊は永遠におられると言われています(ヘブ9:14)。聖書によれば、永遠の存在はいくつあるでしょうか。神だけが永遠です(Ⅰテモ6:16)。もし聖霊が永遠におられると言われるのなら、聖霊は神に違いありません。
 聖霊はまた全能です。ルカ1:35において、「聖霊」と「いと高き方」という二つの言葉は、同義的構造になっています。ここで二つの言葉は、最重要の奇跡、つまり処女懐胎に言及しています。ローマ15:19において使徒パウロは、彼の働きは「しるしや奇跡の力、神の霊の力によって」達成されたと認めています。確かに、聖霊は神の奇跡を起こすことがおできになるのです。
 イエスもまた、聖霊に対する冒瀆(ぼうとく)は赦されない、と言っておられます(マタ12:31、32、マコ3:28、29)。もし聖霊が神でなければ、これは理解しがたいことです。
 しかし、たぶん最も驚くべき聖霊の働きは、人の心と思いを変える能力でしょう。霊的新生を成し遂げてくださるのは聖霊です(ヨハ3:5~8)。聖霊は、神にしかできないことを成し遂げる力を持っておられます。

火曜日:Ⅰコリント3:16、17においてパウロは、6:19、20で使っているのと似通った言葉を用いています。使徒パウロにとって、聖霊が内住されることは、神が住まわれることです。パウロは「神の神殿」と「聖霊が宿ってくださる神殿」という表現を同一視することによって、聖霊が神であられることを指摘しているのです。
 Ⅰコリント12:11においてパウロは、霊的賜物を信者1人ひとりに分け与えてくださるのは聖霊だ、と記しています。十数節あとの12:28では、そうなさっているのは神だ、とあります。その基本的メッセージは明らかです。聖霊は、神がなさっておられるのと同じ行為をなさるということです。それは、聖霊が神に等しくあることの説得力のある証拠です。

木曜日:Ⅰペトロ1:2、Ⅱコリント13:13、マタイ28:18~20で、バプテスマや祝祷において、聖霊が、父なる神、子なるイエス・キリストと並んで言及される事実は、神を賛美し、礼拝することにおける聖霊の位置づけについて教えています。
 聖霊の神性は、私たちが聖霊の正体を正しく認め、適切な形で聖霊と関わるうえで助けになります。聖霊の神性は、神中心の霊的生活の前提条件です。新約聖書の教会は、ためらうことなく、神の他の二格と並んで聖霊に言及しています。聖霊はバプテスマの行為において、父なる神、子なる神と同じ地位と立場を占めておられます。バプテスマは深い霊的意味を持っており、深遠な礼拝の儀式の一つです。バプテスマについて言えることは、祝祷についても言えます。それは、父なる神や子なる神と同様に聖霊がほめたたえられる崇敬の祈りです。神の三つの位格がすべて並んで言及され、平等に称えられています。
 聖霊は礼拝にふさわしい対象として、新約聖書の中で称えられています。それはバプテスマや祝祷の中においてだけなく、私たちがあらゆる霊的に良いものを聖霊に依存しており、天来の教師、聖別する者として彼に従うという不変の要件においてもそうです。聖霊が神であるということは重要でしょうか。もちろん、とても重要です。もし私たちが聖霊の正体を知り、その神性を認めて受け入れるなら、私たちは彼の働きを尊び、私たちの個人的な成長と聖化のために彼により頼むからです。

 今週の暗唱聖句は、祝祷で用いられますね。父、子、聖霊の神の三者が並列して書かれています。ここを見ても聖霊が三位一体の神であることがわかりますね。
 「人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない」(ルカ12:10)。この御言葉については月曜日の引用文の中でも書かれています。救い主の悪口を言っても赦されるのに、聖霊を冒涜するのは赦されないのでしょうか。
 これは聖霊の役割と深く関係あります。聖霊は、わたしたちに正しい道を示し、キリストの救いを受け入れるように導かれるのです。けれども、わたしたちがその声に応えなければ聖霊はそれ以上、働くことができません。聖霊を冒涜することは聖霊の声を拒絶することであり、それは自ら救いの道を閉ざしてしまうことなのです。