第6課 安河内アキラ

2017年 第1期 聖霊と霊性

第6課 聖霊と聖い生活

今週の聖句   Ⅰペトロ1:14~16、イザヤ6:3、ヘブライ12:14、Ⅰコリント6:11、Ⅰテモテ1:8、詩編15:1、2

今週の研究   聖霊は、私たちが聖さを追求することと分かちがたく結びつけられています。何しろ、彼の名前は聖霊であり、「聖なる霊」(ローマ1:4)と呼ばれています。神の名前は、神が聖であること、また、罪人を御自分のような聖なる姿にしたいというのが神の切なる願いであるということを、私たちに思い出させます。
 私たちは今週、聖くあること、また聖い生活を送る意味をじっくり考えます。

月曜日:エフェソ1:4、5:25~27、ヘブライ12:14を読んでください。聖さは、神の賜物であるとともに、神の命令です。それゆえ、私たちは日々それを祈り求め、あらわそうとしなければなりません。聖さは、私たちが毎日聖霊によってキリストと歩むときに、私たちの生活の中にあらわれる霊の実です(ガラ5:16、22、25)。聖さとは、一言で言えば、「キリストのような」です。聖さとは、イエスのものとなり、イエスの子として誠実な服従と献身の内に生き、ますますイエスに似ていくことです。聖という概念に結びついている基本の意味は、分離されている状態、神のための特別な奉仕をするために取り分けられることです。一方で、聖は、本質的に道徳的で霊的な性質、つまり神の前に正しく、純潔である性質をも意味します。両方の側面が結びついている必要があります。

水曜日:ローマ7:12、Ⅰテモテ1:8を読んでください。律法は聖なるものであり、正しく、善いものです。そして、これら三つの特性によって適切にあらわされるのは神です。従って、律法は神の御品性のあらわれなのです。
 聖霊に満たされた生活を送ることは、私たちが神の律法に従って生きることを意味します。律法は、神の聖さの不変の物差しです。律法が設ける基準は、神がお変わりにならないように変わりません。律法は廃されず、そのすべての部分は実現すると、イエスは断言なさいました(マタ5:17~19)。律法を守ることは、律法主義ではありません。それは忠実さです。律法は私たちを救いません。決して救えません。律法は救いに至る方法ではありません。むしろ、それは救われた者たちの道です。律法は、いわば、私たちの愛が履いて歩く靴、愛が自らを表現する靴です。だからこそ、イエスは非常に注目すべき形で、「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」(マタ24:12)と言うことがおできになりました。愛は、律法が尊重されないときに冷えるからです。

木曜日:詩編15:1、2、エフェソ4:22~24(口語訳)、Ⅱテモテ2:21を読んでください。聖潔は、神と交わることの幸福を味わい、また神にとって私たちが有用であることの前提条件です。私たちは、「行動という種をまいて、習慣を刈り取り、習慣という種をまいて、人格を刈り取る」ということわざが真実であることを知っています。私たちはさらに、「人格は運命である」と付け加えるかもしれません。
 唯一私たちが天国へ持って行けるのは品性です。しかし、新しい習慣や新しい品性を身に付けることは自己の努力による聖化ではありません。習慣の形成は、聖霊が私たちを聖化に導かれる通常の方法です。習慣は私たちクリスチャンの歩みにおいて、極めて重要なものです。とりわけ、その習慣が、忍耐、愛、誠実、親切、善意、柔和、節制といった聖書の徳との関連で強まっていく場合には……。
 私たちの心が聖霊によって満たされると、私たちは間違いなく神のために積極的になります。しかし私たちは、私たちを聖化するのが神であり、私たちの内に始められたその善き業を成し遂げてくださるのも神であることを(フィリ1:6)、あまりにもしばしば忘れがちです。ときとして私たちは、神のためにさまざまなことをするのに忙しくて、祈りによって神との時間を楽しむことを忘れます。私たちが祈れないほど忙しいとき、実のところ私たちはクリスチャンでいられないほど忙しすぎるのです。

 聖霊の働きは、わたしたちをイエス・キリストへ向けると学びました。しかしキリストへ向かうとは、具体的にはどのようなことでしょうか。そしてその先はどうなって行くのでしょう。それが今週の学びです。
 キリストに出会うと、わたしたちは必ず自らの罪深さや醜さに気づかされます。神さまはわたしたちの罪をゆるしてくださいますが、わたしたちも聖い道を求めて行かねばなりません。聖霊は、わたしたちが清められた生活を求めて進むように導かれるのです。具体的には水曜日の引用文にありますが、律法やみことばを通して、わたしたちの歩むべき道を示し、励ましてくださるのです。
 木曜日の引用文に、私たちは、「行動という種をまいて、習慣を刈り取り、習慣という種をまいて、人格を刈り取る」ということわざがとありますが、聖霊の声に従って、その道を選び進むのはあなたが次にすることです。