第8課 平田和宣

2017年 第1期 聖霊と霊性

第8課 聖霊と霊の賜物

◆はじめに
 今週の学びを通して「霊の賜物」についての知識的整理をします。有意義な学びとなりますように。
「霊の賜物」とは何でしょうか。引用聖句をまとめると、「私たちが神から割り当てられた任務を果たすことができるよう、愛によって無償で与えられる贈物(能力)」(ガイド55頁、上から4行目)です。生まれつきの能力と「霊の賜物」は区別されていますが、「才能の持ち主が、そのような才能でさえ究極的には神からのものであることを認め、祈りつつ、従順にそれを主の働きにささげるときに」、「神はまた、その目的のために生まれつきの才能を用いることもおできになります」(同頁、下から8行目)。

◆「霊の賜物」の目的
 さて、何をするにしても目的をいつもはっきりとさせておくことが大切ではないでしょうか。「霊の賜物」が与えられる目的は、①教会の一致を強め教会を造り上げるため、②神から託された教会の働きを継続するため、③神に栄光を帰すため、以上3点です(56頁、上から10行目)。
 ですから、例えば単に人の好奇心を満足させるためなどという目的では、決して「霊の賜物」は与えられないし、そのような目的のために「霊の賜物」を用いるべきではない訳です。仮に、これに反するかたちで不思議な業が行われたとすれば、その力は聖なる神以外から来ているのではと疑うべきです。
 この点について主イエス様の模範に注目してみましょう。主が力ある業を行われた時は、人々の苦しみを和らげたり教訓を与えるという目的がいつもそこにありました。しかし十字架に架けられる直前にヘロデのもとに送られた時、彼の好奇心を満足させるためには力ある業を一つもなさいませんでした(ルカ23:6~12参照)。

◆魔術師シモンの間違い
 しかし一方、人間はときどき勘違いをします。その最も愚かな例が、使徒言行録8章に出てくる魔術師シモンです。彼はサマリアで魔術を行って人々を驚かせ、自分のことを偉大な人物と称していた人でした。ところが聖霊に満ちた執事フィリポの宣教を聞き、信じてバプテスマを受洗。悔い改めたはず、でした。しかしその後、ペトロとヨハネがエルサレムからやって来て、人々に聖霊を受けさせる不思議な様子を見ると、シモンはその不思議な力を金で買おうとし、ペトロから痛烈な言葉で叱り飛ばされます。シモンの根本的な間違いは、「霊の賜物」を自己称揚のために用いようとしたことでした。

◆チャンスを台無しにしていないか
 ある時、弟子たちが「私共の信仰を増してください」と主に願ったことがありました。その時、主はからし種一粒ほどの信仰があれば…と説かれ、その後になぜか僕(しもべ)の話をされました。そして最後に「あなたがたも…命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」と言われた(ルカ17:5~10参照)。
 この御教え通りに、与えられている能力を用いて役割を果たした時に、全ての栄光を主に帰し、なおも謙虚でいられたら、きっと私たちの信仰は更に強められていくのだろうと思います。しかし、なんと多くの場合、私たちは心の奥底に潜んでいる自己称揚の思いに負けてしまい、信仰に成長するはずの折角のチャンスを台無しにし、かえって傲慢な心を膨らませる機会としてしまうことでしょうか。

◆召命を躊躇したエレン・ホワイト
 かつてエレン・ホワイトが預言者としての召命を受けた時、彼女は恐れ、誰か他の人を任命して下さいと神に懇願しました。彼女が躊躇してしまった最大の理由は、そのような特別な働きに就いたら高慢になって滅んでしまうかも知れない、というものでした。しかし神は、そのような時には病いを与えて謙遜にする、とお応えになられ、とうとう彼女は召命を受け入れてその働きを開始しました(山形正男著『エレン・ホワイト -その生涯とメッセージ-』福音社、49頁)。
 高慢になって滅びる…。エレン・ホワイトは考え過ぎだったでしょうか。私には、そうは思えません。特別な働きには、特別な誘惑がついてきます。霊の賜物には、自己称揚などの誘惑が必ずと言ってよいほどついてきます。用いられるほど、謙虚でいられるようにと熱心に祈る必要があります。能力、健康、命…全ての全てを私たちは神から頂いている事実を、感謝の心で常に覚えていたいものです。そして全ての栄光を神に帰しながら、与えられた分に応じ、祈りつつ神の御業に献身していきたいものです。