第13課 安河内アキラ

2017年 第2期 「わたしの羊を飼いなさい」 ペトロの手紙Ⅰ・Ⅱ

第13課        ペトロの手紙おける大きな主題     6月24日

暗唱聖句  「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。」Ⅰペトロ3:18

今週の聖句  イザヤ53:5、6、9、レビ記16:16~19、レビ記11:44、ローマ13:1~7、Ⅰコリント14:40、Ⅱテモテ3:16

今週の研究  今週の最後の研究では、ペトロが書いた次の五つの主題について、もう少し詳しく考えます。― 私たちに救いをもたらしたイエスの苦しみ、神が最後の裁きにおいて私たちの行動を裁かれるという知識に対する私たちの実際的な対応、イエスの速やかな来臨に寄せている私たちの希望、社会や教会における秩序、私たちの生に指針を与えることにおける聖書の役割。

月曜日:ペトロは二つの手紙における多くの箇所で、クリスチャンの行動に注目しており、多くの主題が繰り返し出てきます。
 第一に、神の裁きとクリスチャンの行動のつながりをペトロは強調しています。(Ⅰペト1:17、Ⅱペト3:11)神はすべての人の行動を裁かれるでしょう。それゆえ、クリスチャンは清い人生を送らなければなりません。
 第二に、クリスチャンは聖なる者にならなければならないと、ペトロは何度も述べています。旧約聖書において、聖なるものは、神殿での使用や(出26:33、34、28:36、29:6、37)神の御目的(例えば、創2:3 における安息日)のために取りのけられます。実際、神の御計画は、神の民が神のように聖きよくなることであり、ペトロはその主題にも触れています。(レビ11:44、19:2、Ⅰペト1:15、16)何かを聖いものとして取りのける過程は「聖化」と呼ばれ、ペトロの願いは、彼の読者が聖霊によって聖なる者とされ、イエスに従うことです。(Ⅰペト1:2)
 第三に、聖化される人たちにふさわしい行動について、ペトロはいくつか細かい点を挙げています。彼らは、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口を捨て去らねばなりません。(Ⅰペト2:1)彼らは、霊において、同情心において、謙虚な心において一致し(同3:8、9)徳、信心、そして愛を持っていなければなりません。(Ⅱペト1:5~7)

火曜日:ペトロは、未来に起こる二つのこと、つまり最後の裁きと火による悪の滅びを強調しています。言い換えれば、現在は迫害があるけれども、未来には公平な裁きがなされ、信徒は永遠の報いを受けるということを、彼は示しています。
 ペトロは、イエスが本当に戻られるのかどうかということに関して起こった問題を扱っています。(Ⅱペト3:1 ~ 10)ここで彼は、イエスの再臨の「遅れ」は、より多くの人が悔い改めて救われるためなのだ、と指摘しています。また、みんなが、未来の報いの確かさによって、聖く、汚れのない生活を送るためだ、とも指摘しています。
このように、ペトロが現世と実際的なクリスチャンの生き方に注目していようと、彼は読者の前に、未来の希望を提示し続けています。要するに、現在の状況がどうであれ、彼らは信仰と服従によって前進する必要があるということです。

木曜日:ペトロはⅡペトロ3:16 において警告しています。― 聖書は真理の源であるけれども、聖霊が私たちに理解させようとしておられるメッセージに細心の注意を払わなければ、その真理の源自身が誤解され、おそろしい結果を招きうる、と。
 ペトロの言葉は、聖書を学ぶための基本的原則を現在の私たちに思い出させるものです。私たちは祈りつつ聖書の一節を読まねばなりません。私たちはそれを、章、書、聖書全体の背景に即して読まなければなりません。聖書記者は、書いたとき、何に的を絞って語っていたのでしょうか。私たちは書かれた時の歴史的状況に照らして読むべきです。(ペトロの手紙Ⅰ・Ⅱの場合、1世紀のローマ帝国でしょう)私たちは霊的洞察を求めつつ、また、聖書のメッセージの中心がキリストの犠牲的死によってもたらされた救いであること(Ⅰペト1:10~12)を承知のうえで、読まなければなりません。そして最後に、私たちは、私たち自身の生活とのつながりにおいて読むべきです。神は、どんな真理を私たちに受け取らせたいと願っておられるのでしょうか。私たちは神のみ言葉を、神の国に積極的な貢献をする形で、いかに私たち自身の生活に適用できるのでしょうか。

 今期はペトロの手紙を学びました。今週はそのまとめですね。ペトロは再臨が近いこと、教会が迫害や偽教師などによって苦しんでいることを踏まえてメッセージを送っています。そして清く正しい人生を送るように勧めています。
 再臨が近いという切迫感について、以前も書きましたが、わたしたちは再臨の日まで生きている保証はありませんが、それだけでなくいつ死ぬかわからないのです。再臨に向けて生きるのではなく、再臨をいつ迎えても良いように生きねばなりません。迫害や偽教師への対応などを、それぞれの時代や場所によっても異なるでしょう。
 そのような戦いの中で、わたしたちはどうしたら良いでしょうか。この戦いは目に見える戦いだけでなく、善と悪との戦いなのです。「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。 」(ペトロ第一5:8)この戦いに向けて、まずやらねばならないことは身を慎んで、目を覚ます、この二つです。聖書はくりかえし謙虚であれと勧めています。そして目を覚ます、それは自らの弱さを認めているからこそ、いつも神さまとつながることを求めているのです。謙虚で弱さを認めている時に、わたしたちは自分の力に頼らず神さまに信頼します。身を慎んで目を覚まして、この二つはいつの時代でも、そしてどこでもだれでも悪魔との戦いに勝利する秘訣なのです。