第5課 安河内アキラ

2017年 第2期 「わたしの羊を飼いなさい」 ペトロの手紙Ⅰ・Ⅱ

第5課   神のために生きる   4月29日    安河内アキラ

今週の聖句  Ⅰペトロ3:8 ~ 12、ガラテヤ2:20、Ⅰペトロ4:1、2、ローマ6:1~ 11、Ⅰペトロ4:3 ~ 11、サムエル記下11:4

今週の研究  今週、ペトロはこの路線の話―クリスチャンが神に献身し、バプテスマを受けたあとに、キリストにあって送る新しい人生に関する話―を続けます。実際、その変化は大きいので、ほかの人がそれに気づくでしょう。ペトロは、このような変化が常に簡単なものだとは言っていません。確かに彼は、私たちに約束されているその勝利を得るためには、肉において苦しむ必要があると語っています。(Ⅰペト4:1)

日曜日:当然、そのように一致団結することは、必ずしも容易ではありません。悲しいかな、キリスト教会の歴史は、このことを頻繁に示してきました。それゆえ、ペトロは信者たちに、考えが一致しないことを戒めています。それから彼は、彼らがいかにしてこの一致というキリスト教の理想を示すことができるかを語っています。
 例えば、クリスチャンは同情し合って行動すべきです。(Ⅰペト3:8)同情とは、あるクリスチャンが苦しむとき、ほかのクリスチャンがともに苦しむこと、別のクリスチャンが喜ぶとき、ほかのクリスチャンがともに喜ぶことを意味します。(Ⅰコリ12:26と比較)同情は、私たちがほかの人の視点を理解できるようにさせます。それは一致に至る重要な一つの段階です。ペトロは次に、私たちは「愛し合う」(同3:8、英訳)ようにと言います。イエス御自身が、彼の真の弟子たちを見分ける方法は、彼らが愛し合っていることによってである、と言われました。(ヨハ13:35)さらにペトロは、クリスチャンは憐れみ深くあるように、と言います(Ⅰペト3:8)。彼らは互いの問題や失敗に同情を寄せるのです。

月曜日:「肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです」(Ⅰペト4:1)というペトロの言葉を理解するのに最も役立つのは、バプテスマでしょう。クリスチャンはバプテスマによって、イエスの苦しみ、死、復活にあずかります。「人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きる」(同4:2)選択をしました。これは、日々自己を主に明け渡すこと、「肉を欲情や欲望もろとも十字架につける」(ガラ5:24)ことによって成し遂げられます。
 パウロはローマ6:1 ~ 11 において、クリスチャンはバプテスマを受けたときイエスと一体になり、その死と復活にあずかると言っています。バプテスマにて、私たちは罪に死にました。今や私たちは、罪に対する死を私たちの生において現実のものとする必要があります。「あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」(ロマ6:11)というパウロの言葉は、クリスチャン生活の秘訣を明らかにしています。

ペトロによれば、「万物の終わりが迫っている」ので、クリスチャンの生き方が述べられています。(Ⅰペト4:7 ~ 11 参照)思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈ることに加えて、クリスチャンは「心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。」(同4:8)
 これはどういう意味でしょうか。愛はどのように罪を覆うのでしょうか。鍵は、ペトロが引用している箴言10:12 の中にあります。「憎しみはいさかいを引き起こす。愛はすべての罪を覆う」。私たちが互いに愛し合っているとき、私たちは、自分を傷つけ、怒らせる相手を、よりたやすく、より進んで赦すことができます。キリストはその愛によって私たちをお赦しになります。私たちも自分の愛によってほかの人を赦す必要があります。愛にあふれている場所では、小さな侮辱が、そして大きな侮辱さえもが、よりたやすく見逃され、赦されます。
 ペトロはまた、「クリスチャンは温かくもてなしなさい」と勧めています。再臨は近いかもしれませんが、それを理由に、クリスチャンは社会的関係から身を引くべきではありません。そして最後に、クリスチャンは語るとき、神の言葉を語っている者にふさわしい語り方をしなければなりません。言い換えれば、時が迫っているので、霊的真理を真剣に伝える必要があるということです。

 洗礼を受けることで、わたしたちは完全なものになれるのでしょうか。水から上げられる時に、罪から離れることができるようになるのでしょうか。バプテスマは、神の子となることを自ら選び、神さまに従おうとして生きる道を歩むことを選ぶのです。生き方の方向性が変わって行くのです。今まで大好きだったものが不要に思えて、逆の方向に進もうとするときに、大切と思わなかったものが重要なことに変わるのです。
 このようなたとえも聞いたことがあります。光から背を向けると、目の前には影ができます。そして光から離れれば離れる時に、影は長く大きくなっていきます。けれども、光から離れてしまった場所で、光の方へ向きを変えれば影はどうなるでしょうか。少なくとも自分の前には影がありません。立っている場所は同じでも、向いている方向が異なることによって、わたしたちの影は消えて行きます。
 光へ向かって歩いて行こうとする時にも、様々な障害はあります。そしてつまずくこともあるでしょう。あきらめないで光に近づけば近づくほど、明るいあたたかな光に包まれていくのです。月曜日の引用文で教えているのは、このような生き方ではないでしょうか。
 木曜日の引用文を読んでください。終わりが近づいているから、思慮深く、身を慎み、よく祈り、愛し合いなさいとペトロは勧めています。それは再臨が近いからしなければならないことでしょうか。どんな時でもクリスチャンの生き方にとって大切なことなのです。再臨が近いから、それを動機とするのではなく、神さまの子どもとして温かくもてなすような生き方が、わたしたちには求められているのではないでしょうか。