第7課 安河内アキラ

2017年 第2期 「わたしの羊を飼いなさい」 ペトロの手紙Ⅰ・Ⅱ

暗唱聖句 「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」   Ⅰペトロ5:7

今週の聖句  Ⅰペトロ5:1~10、使徒言行録6:1~6、エレミヤ10:21、マタイ20:24~28、箴言3:34、黙示録12:7~9

今週の研究  Ⅰペトロ5:1 ~10において、ペトロは地域の教会におけるクリスチャン指導者の課題に取り組んでいます。これらの聖句の中で、彼は地域の教会の指導者だけでなく、教会員にも必要とされる重要な特徴のいくつかについて書いています。彼の言葉は、当時と同様、現代の私たちにとっても意味があります。

月曜日:ペトロは長老の役割を、神の群れの世話をする羊飼いになぞらえています。彼が教会を羊にたとえていることは、教会員が羊のように、時折、勝手な単独行動を取るという考えを示しています。それゆえ、彼らは羊飼いによって群れへ引き戻してもらい、群れと協調して働くように助けてもらう必要があるのです。長老はまた、クリスチャンはいかに行動すべきなのか、その謙虚な模範になるという役割も果たさなければなりません。
 ペトロはまた、長老たちは、強制されてではなく、自ら進んで監督をしなさい、とも言っています。教会で指導をするという困難に自ら進んで挑む人を見いだすことは、必ずしも容易ではありません。このことは、役員推薦員会などで特に明らかです。しかし、教会がきちんと機能するためには、果たされなければならない異なる役割がたくさんあります。多くの人が指導者の役割を担いたがらないことには、理由があります。こういう役割のいくつかは、かなりの時間の投資を求められますし、そのような役割に適した人は、すでに多くの責任を担っているかもしれないからです。また人によっては、この役割を担うには、自分は十分な準備ができていない、と感じるかもしれません。 しかしペトロは、もし私たちが頼まれ、そうすることができるのなら、進んで指導の役割を引き受けるべきだ、と言っています。

火曜日:イエスは、この名誉ある地位を与えるのは御自分でなく、父なる神である、と説明なさいます。しかし次に、イエスの王国と異邦人の王国との重要な違いは、彼の王国に登場する指導者の種類である、と説明を続けられます。イエスが王であられる国で指導者になりたい者は、僕にならねばなりません。というのも、イエスの王国における指導者は、イエスに似ているからです。「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」(マタ20:28)
それゆえ、ペトロは教会の指導者たちに、同じ理想を目指すよう呼びかけています。イエスに見られる服従と自己否定が、彼らの中にも 見られなければならないのです。

水曜日:クリスチャンは、指導者であればなおさら、自分が神の恵みによって救われた罪人であることを知っています。それゆえ、この最も重要な意味において、私たちはみな平等であり、キリストの十字架の前で、私たちは謙遜になります。そしてこの謙遜は、他者との関係において、とりわけ私たちが監督している人との関係にて表す必要があります。確かに、天地の創造主なる神の前なら、だれでも謙遜になれます。また、私たちより上の人、私たちを支配する人、私たちより地位が高い人の前でも、謙遜になることは比較的容易です。本当に試されるのは、私たちが、自分の「下」にいる人、私たちに対して力を持っていない人たちに謙遜をあらわすときです。ペトロがここで語っているのは、このような謙遜です。

人生には次々に難題がふりかかってきます。人生最大の危機と思い、必死になって乗り越えたら、その向こうに次の波が見えてきています。それまで何回も人生の荒波を乗り越え、その都度神さまの助けを受けていたことを忘れて、目の前の問題に集中すると不安に襲われてしまうことの繰り返しです。
 今週の暗唱聖句は、そのようなわたしたちに語りかけています。これを「霊的楽観主義」とでも申しましょうか。やることをやったら、あとは結果をおゆだねする。このような生き方を勧めています。問題はすべて神さまが解決してくださるから、わたしたちはただ祈っているだけで良いという考えはまちがっています。
 何回も書いていますが、あなたに奉仕の業を託された場合は、周りはあなたにできないことは頼まないです。あなたができると考えているからお願いするのです。月曜日の引用文の後半にありますが、その働きを受けてみなさまの喜びのために奉仕をしようとする時に、必ず神さまは助けてくださいます。
 また水曜日の引用文にありますが、特に責任のある立場にある方は「謙遜」が大切です。責任ある立場で、前に立ってみなさまを導いて行かねばならない時に、ついついこのことを忘れがちになりますね。だからこそ聖書はくりかえし謙遜であることを教えています。神さまを見上げる時に、わたしたちは自らの弱さを思い謙遜にならざるを得ません。だからこそ日ごとの礼拝が必要なのです。